ノボルさんは、まだ暑さの残る夕暮れの商店街を、とぼとぼと歩いておりました。
肩にかけた書類鞄が、やけに重たく感じられます。
上着からのぞくワイシャツの袖口が、少しよれていることに気がついたのは、今しがた汗を拭ったときでした。
店先のガラスに映る自分の姿は、どこから見ても、疲れたおじさんそのものです。
仕事帰りのノボルさんは、ついさっき、役所におかあさんのことを相談しにいったところなのでした。
ノボルさんのおかあさんは、もうおばあさんです。
「今日も、ヘルパーさんが来るからね」
ノボルさんは毎朝、おかあさんに説明します。おかあさんは、
「わかったよ」
と答えるのですが、わかっているのかいないのか、ノボルさんにはわかりません。
ずいぶんと物忘れが増えましたし、近ごろは時間の感覚もおかしいようで、
今朝も会社へ行くノボルさんに、
「ノボル、今日は学校かい?」
などと言いました。
台所に置いてある、味噌汁の入った鍋を見て、
「おや、誰が作ってくれたんだろうねえ」
と首をかしげますが、それは昨日おかあさんが、ヘルパーさんと一緒に作った味噌汁なのでした。
「いいかい、先生に大きな声であいさつするんだよ。もう一年生なんだからね」
「ノボル、今度プリン食べようねえ」
「おとうさんは遅いのかねえ」
おばあさんになったおかあさんは、すっかりおじさんになったノボルさんのことを、まだちいさな子どもだと思っているようでした。
ノボルさんは「そうだね」と返事をして、玄関のカギを閉め、今日も仕事に出かけたのでした。
商店街は、夕方の色と匂いにあふれていました。
行き交う人たちは、大きな買い物袋を下げたり、親子で手をつないだり、誰かと電話をしていたり。
みんな、行く場所や帰る場所に向かって、歩いています。
ノボルさんは、鞄の食い込む肩に力を入れ直して、顔を上げました。
そのとき、ノボルさんの目の前に、曇りガラスの格子戸が現れたのです。
はて、こんな店があったかな。ノボルさんは不思議に思いました。
こっくりと飴色に染まった、古びた木枠。
夕暮れの光がぼんやりとにじむ、うっすらとした乳白色の、波打つガラス。
子どものころ、おこづかいを握りしめて通った駄菓子屋を思い出す、懐かしい扉でした。
たくさんの人の手に触れてきた艶のある格子戸の取っ手を、ノボルさんはゆっくりと引きました。
かた、と扉が開きました。
ほんのすこし薄暗くてやわらかい空気が、ノボルさんの頬をなでてゆきます。
しんと静まり返っていて、涼しさを感じるほどでした。
両脇には木の棚が並んでおり、ところどころにちいさな引き出しが見えます。
昔の駄菓子屋のような、あるいは古道具屋のような佇まいでした。
けれども思いのほか天井は高く、裸電球がぶら下がっており、そのまわりには静かに埃が舞っているのが見えました。
木の棚には、よくわからないものが並んでいます。
からっぽのガラスの瓶、何も書かれていない紙の切れ端、大きいボールのような黒い玉…。
ぐるりと見回しているうちに、ノボルさんは、ちいさな黄色い石を見つけました。
つやつやとした、いかにも甘そうな黄色です。
そっと近づいてさわってみると、ひんやりと冷たくて、滑らかでした。
「いらっしゃい」
ふいにしゃがれた声が聞こえて、ノボルさんはびっくりして飛び上がりました。
「あっ、勝手にお邪魔してすみません」
ふり向くと、おじいさんともおばあさんともつかない老人が立っていました。
ノボルさんよりも背が低くて皺の深い顔を見ると、ちょうどおかあさんぐらいの歳でしょうか。
「いいんですよ。ここに来られるのは、約束に呼ばれた人だけです。どうぞごゆっくり」
店主らしき老人の声はやさしく、空気に溶けていきました。
ノボルさんは、黄色い石を手に取りました。
持ち上げてみると、普通の石ほどの重さはありません。
天井の電球か、外からの西日か、静かな光が石をつやつやと照らし、やわらかく揺らいだように見えました。
ふと、ノボルさんは思い出しました。
あれはいつだっただろう。おかあさんと商店街に行ったとき、ちいさなノボルさんは、ショーケースの中のプリンを見つめていました。
滑らかな黄色で、つやつやと光って見えたのでした。
「ノボル、今度プリン食べようね」
あのとき、おかあさんはそう言ったのではなかったでしょうか。
ノボルさんは、なんと返事をしたのでしょう。うん、とうなずいたのか、わあい、と飛びはねたのか。
そして、その今度は、いつだったのでしょうか。
気づけばノボルさんは、人の行き交う商店街に立っていました。
あの懐かしいような不思議な店をいつのまに出たのか、さっぱり覚えていません。
右を向いても左を向いても、うしろを向いても、曇りガラスの格子戸は見当たりませんでした。
手に持っていたはずの、黄色い石もありません。
ノボルさんは、はっと時計を見ました。おかあさんが家で待っています。
急いで商店街を抜けようとして、ノボルさんは足を止めました。
若い女の子や、親子連れでにぎわうケーキ屋さんが見えたのです。
おじさんひとりで入るのは、ちょっぴり気が引けましたが、ぐいと鞄を肩にかけ直して、ノボルさんはお店の扉を開けました。
「いらっしゃいませ」
先ほどの老人とはうってかわって、ほがらかな女の人が声をかけてくれました。
「あ、あの、このプリンをふたつ、ください」
「はい。プリンをおふたつですね」
店員さんは、透明な瓶に入ったプリンを、ちいさな袋に入れてくれました。
ノボルさんは、お金を払ってお店を出ました。
今度こそ、家に帰ります。
やわらかそうな黄色いプリンが傾かないよう、ノボルさんは再び汗を拭ってから、そっと歩き出しました。
