「添削」って、ちょっと怖いイメージ、ないですか?
言葉そのものが、強くって。
される側としては、学生時代に先生に赤を入れられた記憶もあり、
読み手にとっての正解・不正解を探しにいかねばならない感覚で。
する側としては、何であれ生み出された、その人の尊い文章に、
私が手を入れるなんて、恐れ多い気がして。
でも、苦手意識があったのは、対人の添削だけで、
自分で自分の文章を添削は、ずっとしてきました。
私にとっての「添削」とは、
素材そのものに、手を入れること。
たとえるなら、文章という木の枝を剪定するようなものです。
言葉の重なりや、伸びすぎた枝葉のように冗長な表現を切りそろえて、
意味がまっすぐ伝わるように、文章の形をわかりやすくする作業になります。
【例:元の文】
この風景は、自分の心の中にあったものだったけれど、
それがこんなに鮮やかに現実にあるなんて、不思議な気持ちになったし、少し泣きたくなった。
【添削後】
この風景は、私の心の中にあった。
とはいえ、現実に目の前にあらわれると、少し涙が出そうになった。
冗長な部分を省いて、文の密度を上げることが多いです。
私が冗長に書くと、会話でいうところの、
「何を話してるんだか、よくわからない」になるので。
冗長な表現を、ご自身の作風として確立されている方は、
本当にすごいなと、いつも思います。
私の文章という空間の中に、
書きたいことを、ふわふわと散りばめるのではなく、
ぎゅっと濃縮して、置いておく。
密度を上げることで、文章に余白が生まれて、
読む人の五感が、入りこむ余地ができます。
そうすると、
“感じるように”読んでもらえます。
【次回、「推敲」のお話に続く】