私は、文章を評価しません。
そこにあるものを、ただ、読みます。
その瞬間、書き手の中から生まれた、この文章。
という事実が、とても尊いと感じているから。
伝えようとしてくれたこと。
伝えきれなかったこと。
言葉にならなかったものの気配まで、そのまま、受けとめたいのです。
目次
読むことで、それぞれが違う景色を見る
読み手の流儀
受けとる流儀
つながる流儀
読み返す流儀
育てる流儀
読むことが、私だけの景色をつくる
読むことで、それぞれが違う景色を見る
同じ文章を読んでも、何を受けとるかは、読み手によって違います。
誰が読むかによって、その文章は、まるで違うものになるのです。
そういう意味では、世の中に同じ文章は、ひとつとして存在しません。
唯一無二の存在。これを尊いと言わずして、何としましょう。
読むことに、優劣や正解はない。
どの解釈も、どんな感じ方も、読んでいるあなただけのもの。
それが「読む」を自由にするための、前提でもあるのです。
読み手の流儀
受けとる流儀
私は、文章を「理解しよう」として読んでいません。
書いた本人ではないので、自分に100%理解するのはそもそも無理だ、と思っているから。
どうせ理解できないのだったら、間口を広げて読んだほうが、
思いがけず伝わってくるものがあるかもしれない。
だから、自分の価値観や経験のフィルターを、いったん脇に置きます。
「こういう話だろうな」「きっとこういう意味だ」
思い込みや先入観で決めつけないように、読む。
書き手の意図を当てにいくのではなく、ただ、言葉のままを、受けとります。
わからないところも、曖昧なところも、
すべてそのまま、文章の一部として味わいたいのです。
なので、実は予測や先読みができません。
推理ものも、先を予想しないで読みます。
ミスリードには、しっかりと引っかかる読者です。
登場人物以上に、トリックや展開に、新鮮に感動できる読者でもあります。
つながる流儀
読んでいて「これ、わかるなあ!」と思う瞬間。
確かに、書いた人とのつながりを感じます。
でも、書き手の意図を正しく読みとった、ということではないのです。
自分の中に、たまたま同じような景色があっただけ。
私の世界と、誰かの世界のあいだに、風が駆け抜けていくような。
そんな感動を、大切にしたいと思うのです。
読むことに、正解はありません。
共感という言葉で、片づけられるものでもない。
わかる、じゃなくて、触れる。
意図ではなく、温度によりそう。
完全に理解できなくてもいい。
どこかひとつでも、触れられる場所があるなら、
それだけで、読み手と書き手は、つながっています。
読み返す流儀
文章は、一度読んだら終わり、ではありません。
読むたびに、文章の表情は、少しずつ変わっていきます。
けれど、文章そのものが変わっているわけではないのです。
変わっているのは、読む自分のほう。
心の状態や、生きている場所、時間の流れ。
さまざまなものに揺らぎながら、同じ文章を、まったく違う感覚で受けとるようになる。
読むということは、途中経過なのだと思っています。
文章は、書き手と読み手の関係性によって、変わり続ける存在なのです。
文章は、読み返されて、進化します。
人に向けられた発信だけではなく、昔の日記などでも、同じことが起こります。
未来の自分が読む、あのときの自分の言葉もまた、進化し続けているのです。
育てる流儀
理解しようとして読んでいない、とはいえ、
まったく意味のとれない文章に出会うこともあります。
いまいちピンとこないまま、読み終えた文章。
そういう言葉が、ふとしたときに浮かんでくることがあります。
ああ、あのときすぐには消化できなくても、
自分の中に、静かに残っていたんだな、と思うのです。
そのときは意味がわからなかったのだけれど、
時間が経ってから「こういうことだったのか」と感じる。
文章には、あとから芽を出す、言葉の種があります。
私は、わからない文章に出会ったとき、
「わからないなあ」と思いながら、心の中に置いておきます。
もちろん、言語としての意味を調べて読みはしますが、
感覚としての「わからない」は、わからないまま受けとります。
文章には、読んだ瞬間に花開く美しさと、
読み終えたずっとあとに、言葉が育っていく美しさがあります。
どちらの美しさも、読み手としての醍醐味なのです。
読むことが、私だけの景色をつくる
読むということは、誰かの言葉に触れること。
同時に、自分の中の何かに気づいていくこと。
人の言葉を読んでいたはずなのに、ふと、自分の気持ちや記憶に触れていることがあります。
書かれた文章と、自分の中の何かが重なって、そこに、新しい景色が生まれるのです。
読むたびに、感じ方が変わるのは、読む自分が変わっていくから。
意味がわからなかった言葉も、読み返すうちに、新しい色を纏って見えてくる。
読んだ言葉が、自分の中に根づいて、少しずつ、私自身の景色をつくっていくのです。
私は、理解するために読んでいません。
評価するためにも、読みません。
読むことは、出会うこと。
読むことは、受けとること。
読むことは、育てること。
そうして、いつか。
読むことが、私だけの世界を育てていたのだと、実感する日が来るのです。
◇ ◇ ◇
対の流儀。書くことの話は、こちらです。
