ことばの流儀

下手な文章って、私には存在しません。

文章が下手な人も、いないと思ってます。

もちろん、読みやすい文章や、伝わりやすい言い回しはあります。
でも、それはあくまで、受け取る側の好みなだけで、
文章そのものの価値とは、まったく別の話なんじゃないかな。

誰かが言葉にしてくれたこと。
それがたどたどしかろうと、感情的であろうと、
不器用であろうと、整っていなかろうと、
その瞬間に綴った言葉は、揺るぎない「いま」の真実で。

文章は、文章としてそこにあるだけで、尊いのです。

「書けない」「うまく書けない」
そんなふうに感じている人に。

誰かの言葉に対して、
「上手い」「下手」で判断しがちな人に。

書くことが、得意かどうかは関係なく。
読むことに慣れていても、いなくても。

あなたに伝えたい、ことばの流儀。

目次

  1. 文章の価値は、「そこにあること」
  2. ことばの流儀
  3. 書く流儀
  4. 伝える流儀
  5. 続ける流儀
  6. 待つ流儀
  7. その文章が、「そこにあること」

文章の価値は、「そこにあること」

「この文章は上手い」「これは下手だ」という表現を、目にすることがあります。
文章講座や、レビューサイト、SNSの投稿欄でも。
学校で書いた作文でさえも。

でも私は、それを見ると、少しだけ胸がきゅっとなるのです。

だって、誰かがいっしょうけんめい綴った、その言葉は、
「上手いか下手か」というものさしで測られるために、生まれたわけじゃない。

たしかに、「読みやすさ」や「伝わりやすさ」は、大切だと思います。
私自身も、大切にしています。

けれど、それは、受け取る人との相性のようなものです。

たとえば、早口で話す人と、ゆっくり話す人。
論理で話す人と、感情で話す人。
どちらが正しいということではなくて、
ただ、自分と合う・合わないがあるだけなのです。

文章も、同じです。

声のトーンが違うように、文章のリズムも違っていい。
響く言葉が違うように、選ぶ単語も違っていい。
文章表現の多彩さを、ひとつの好みとして受けとめれば、
そこに優劣は生まれない。

誰かの言葉を、下手だと切り捨てるのではなく、
「この人は、こういうふうに世界を見ているんだな」って、
すこし立ち止まって感じてみる。

そんなふうに、言葉との向き合い方が変わったら、
書くことも、読むことも、もっと自由になると思うのです。

ことばの流儀

書く流儀

書くことに慣れてくると、
「いいことを書かなきゃ」とか「きれいにまとめなきゃ」って、
見せることを、意識しすぎてしまうことがあります。

でも、読み返したとき、いちばん違和感がなかったのは、
飾らない言葉で綴った文章だったんです。

うまく伝えようとして、重ねすぎた言葉より、
「私にはこう見えていた」「私はこう感じていた」
という、素直な視点から出た言葉のほうが、
ずっと深いところで、自分の気持ちによりそってくれていました。

正しくなくても、強くなくてもいい。
その時の自分を、書き残しておく勇気を、大切にしたいと思っています。

伝える流儀

「伝えなきゃ」「ちゃんと伝わるようにしなきゃ」と思うと、
文章が緊張してしまいます。

誤解されないように、間違えないように、
丁寧に、慎重に言葉を選びすぎて、
いつのまにか、自分の本音が遠くなってしまうこともあります。

私は、すべてを伝えることよりも、
少しでもつながることを、大事にしたいと思っています。

読んでくれた人の心を、そっとあたためるように。
自分の感じたことや、見ていた景色が、
誰かの中の思い出や感情に触れて、
ふっとやさしく重なるように。

私の全部が、伝わらなくてもいいんです。
言葉が伸ばした手に、あなたの指先が触れてくれたら、
それだけで、じゅうぶんに役目を全うしていると思うのです。

続ける流儀

「ちゃんとまとまった文章を書かなきゃ」
「読みやすく仕上げなきゃ」
気負うほどに、手が止まってしまうことがあります。

最後まで書けなかった原稿。
途中までしか書かれていないメモ。
何が言いたいのかわからないまま、ぽつんと残された言葉。

それらは、失敗作ではありません。

書きかけの文章にも、未完成のままのノートにも、
そのとき感じたことや、考えたことの種がちゃんと残っていて、
いつかの自分に、そっとつながる瞬間があります。

書くことは、ゴールじゃない。
終わらせることよりも、向き合い続けること。

書くたびに、自分の感覚が、少しずつ育っていきます。

私たちは、生きている間は、いつでも途中経過。
書き終えることを急がずに、
書き続けることを、大切にしています。

待つ流儀

書く前に、言葉にならない何かが、ふわっと満ちる瞬間があります。

まだ名前のついていない感情。
景色や音のように、ただそこにあるものの感覚。

それを、すぐに文章にしようとすると、
輪郭のないものが無理やり形をとらされて、
どこか違うものになってしまいます。

言葉になる前に、そのまま味わう時間を、大切にしたいのです。

すぐに書かなくてもいい。
そのものの気配が自分の中に根づくのを、静かに待つ。
うまく説明できないまま、抱えて眠る。

そうしていると、
ある日ふいに、その感覚がするすると言葉をひきよせて、
ひとつの文章として、姿を見せてくれることがあります。

言葉は、ちゃんと来ます。急がなくても、大丈夫。
無理に形を作らなくても、感じたことは、確かに自分の中で生きています。

その文章が、「そこにあること」

文章に上手さを求めすぎると、その人のいちばんやわらかい部分が、
置き去りになってしまうように感じます。

たどたどしくても、不器用でも、
自分の言葉で綴った文章には、ほかの誰の言葉にもない力がある。

書いた瞬間から、その文章はもう尊くて、
読み返すたびに、少しずつ違う顔を見せてくれます。

書くことは、自分の奥行きを知ること。
そして、世界を広げること。
誰かとつながる、ひそやかな手紙のようなものでもあるのです。

そこにある言葉たちの尊さを、
ひとつずつ拾い上げて、今日も書き続ける。
これが私の、ことばの流儀。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする