たとえば、この人が好きだ、と思ったとき。
その気持ちが恋なのか、愛なのか、友情なのか。
私はとにかく、名前をつけたがる少女でした。
目に見えないけれど存在するものに、名前をつける。
見えないものを見えるようにして、誰かと共有するのには、
名前をつけるのが、いちばん楽だったのだと思います。
その少女のまま大人になって、親になって、
子どもが学校に行けなくなったときも、やっぱり名前をつけようとしました。
いじめもない、人間関係は良好、成績も決して悪くない。
いろんな話を聞いたり、検査をしたりすることになったけれど、
出てくるのはどれも、名前のない物事ばかり。
発達障害とも言いきれないグレーゾーン、
感覚過敏ではあるけれど病的ではない、一般的な病名のつくものは何もない。
だけど、学校に行けない理由や原因を、まわりの大人も先生も知りたがる。
--そんなものは、本人と私が、いちばん知りたい。
みんながうなずいてくれる、わかりやすい名前があったらいいのに。
何度そう思ったことでしょう。
本人も私も、端的に説明できる言葉を持たず、
名無しのままで、数年間を過ごしました。
何年も何年も、言葉を尽くして、時間と労力をかけて説明し続けて、
私は、名前のない物事が不安だったんだな、とわかってきました。
ごちゃごちゃの書類をラベリングして並べるように、
自分に理解できるものだけを、心に持っていたかった。
名前さえあれば、それがたとえ表面的なものに過ぎなくても、
簡単に理解してもらうこともできた。
誰かがわかってくれるなら、私はひとりで苦しまなくていい。
でも、子どもの姿を見てきて、気持ちに触れてきた数年間。
たった一言で説明できるはずもないと、裏側にどれだけ見えないものがあるのかと。
それを強引に一言で片づけてはならないのだと、思い知ったのです。
複雑な物事をシンプルな言葉にしたいという価値観は、
私が文章を書くうえで、とても役に立っているものだけれど。
使いどころを間違えると、暴力になる。
あったはずのものを、すべて、なかったことにしてしまう。
わかったつもりになるために、名前をつけるのは、やめよう。
自分が楽になるために、ラベルを貼って分類するのは、やめよう。
そこからようやく、「ありのまま」という言葉の意味も、
本当にわかり始めたのではないかな。
こうして、名前をつけたがる少女は、
名無しでも生きられる大人へと、少しずつ変わってゆくのでした。
