今年度、中学生になった長男は、電車とプラレールと、機関車トーマスが大好きな子でした。
【その“好き”は、細胞が憶えている】
小さかったときは、自転車の後ろに乗せて、2〜3時間に1本のローカル線が通るのを、踏切まで見に行って。
服も靴も、カバンもおもちゃも、プラレールとトーマス一色でした。
#最推しはドクターイエローとゴードン
それが、小学校の間に、恐竜と昆虫大好きに移り変わり、
服や靴などの、身につけるものには惹かれなくなって、
フィギュアやガチャガチャといった、コレクション系統に変化していきました。
なんだけれど、私はいまだに、電車や恐竜や昆虫の、服や靴やカバンを見ると、
「ねーねー! 見てこれ!」って、息子を呼んでしまうし、なんなら買いたくなってしまう!
本人は「ふーん」で終わるのも、いま着るわけではないのも、わかっていても、
もはや条件反射的に、私が反応してしまうんですよね。
子どもと一緒に“好き”を楽しんだ、細胞の記憶なのかな。
そう思うと、母や祖母が、私がいくつになっても、
「これ好きだったよね?」って、ニコニコと差し出してくれた、おやつやごはんにも、
たっぷりの愛情が詰まっているんだなあ。
#今は好きじゃないよとか
#もうそんなに食べないよとか
#いろいろ思うこともあったけど
頭ではわかっていたつもりでも、体感で理解できるようになったのは、本当に最近。
親の立場としては、常に今のわが子を見よう、要らないものは押しつけないでおこう、と思う一方で、
子の立場としては、細胞レベルに刻み込まれるぐらい、愛されている事実を、柔らかく受け取りたい。
#要らないものだとしても
#愛情は受け取れるように
この、行動としては相反する愛情を、自分の中に包み込めるようになったのは、
私の40代の成長かもしれない! と思っています。
ちなみに、買い物中に見つけた、懐かしのプラレール靴!
の隣に、ジュラシックシリーズの恐竜靴があったので、やっぱり興奮して、長男を呼んでしまった私ですw
「おー、すげーなー」と眺める息子の目線は、もうすでに、
“大好きだったものたちの思い出”を語る、母と横並びになっていました。
大きくなったなあ。
明日は、中学校の入学式です。