先生、ぼくら、しょうがいじなん?(成沢真介)

「特別支援教育」という言葉を初めて知ったのは、20代の頃、教育委員会で働いていたとき。

実際にどのようなものなのかを知ったのは、長女が学校に行けないと言うようになってからでした。

ごく最近のことですし、何となくわかった程度に過ぎません。

でも、心身に何らかのしんどさや不便さを抱えているために、普通の学校という括りの集団で生きづらい子どもたちにとって、必要なシステムなんだな、と思っていました。

ところが、この本で、常識が覆りました。

教員が現場から伝えたい、

「分ける教育」のリアルと違和感。

そう書かれた帯の裏側には、本文からの抜粋が載っていました。

看板を見上げながら漢字の読めるY君が言いました。

「しょうがい じどう せいと さくひんてん」

看板の文字を声に出して読んだ後、こう言いました。

「先生、ぼくら、しょうがいじなん?」

私は返す言葉が見つからず何も言えないまま突っ立っていました。

その時、何と答えたのか全く覚えていません。

頭を殴られたような衝撃でした。

私はもし、自分の子どもから、そんなふうに問いかけられたら、何て答えるのだろう。

本の中では、そもそも、「普通」と「特別支援」、「普通」と「障がい」というカテゴリ分けが、言葉や状況としての壁を作っているのだとありました。

同じ教室で優れた合理的配慮により個々のニーズに応じた教育をみんなと一緒の場で受ける環境を目指すべきだと思います。

その言葉が、特別支援教育の目指すところを、明確に示しています。

私は、特別支援の教室や学校が分かれていることが、普通の環境なのだと思っていました。

子どもの頃にも、そういった場所があったから。

でも、それは、昔より良くなってはいても、最善ではないのだということを、教えてくれた1冊です。

読みながら、改めて、長女を取り巻く環境が恵まれていることを痛感しました。

娘は今まさに、「合理的配慮を受けながら、みんなと一緒の場で教育を受けている」ことが、よくわかります。

子どもとの向き合い方

私は教師ではありませんが、生きづらさを抱えた長女と向き合う上で、とても参考になる内容も多かったです。

たとえば、「伝える」ことと「分かる」ことについて。

義務教育後の現実について。

「関係性の中で生きる」ことについて。

今までは一般論としてしか理解できなかったものが、娘を通すことによって、実感として入り込んでくるのです。

そして何より、「その子らしさを味わう」気持ち。

これは、障害があろうとなかろうと、教育と子育ての原点であり、コミュニケーションの基本ではないでしょうか。

我が子たちの、我が子たちらしさを味わう、子育てがしたい、と思いました。

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