以前、
「物質的安心感と、精神的安心感を分けられると、おもしろいですよ」
と、 平野 麻子 さんに教えていただきました。
【安心感について考えてみた】
うまく使えている感覚は、まだないのですが。
ざわざわと不安を感じたときに、これはどっち?
って、心と体にきいてみる整理整頓法は、確かにおもしろいです!
たとえば、買い物するとき。
大きなものでなくても、日常のストック品とか、ごほうびスイーツとか、可愛い雑貨とか。
今までやっていたのは、
「これ、いま必要なの? ほんとに?」
と自分に聞く方法でした。
心の奥底に隠れていた答えがわかることもあれば、うやむやになったままのこともあります。
すると、満たされる買い物と、そうでない買い物が出てくる。
なので、それを今買いたい、と思うのは、
「物質的に安心したいのか」「精神的に安心したいのか」という角度から見てみます。
そうしたら、単に“本当に欲しいのかどうか”よりも、
“物質として必要なのかどうか”のほうが、満足のいく判断がしやすい、と感じました。
また、たとえば、誰かに話したいとき。
声に出して体をすっきりさせたいのか、
問題の解決策を見つけたいのか、心に寄り添ってほしいのか。
どこに安心感を求めているかによって、話し方も話す相手も変わりますし、
そもそも話さなくていい、という結論になることもあるんだな、ってわかりました。
こうして、安心感について考えるということは、不安感についても考えるということです。
私が安心感から得ているものは満足感。
なら、不安感からは不足感なのか。
だから、何かで満たしたくなるのか!
その視点で過去をふり返ると、満たしたいものが、物質か精神なのかがわからず、混同したときに、
私は依存的になったり、強迫的になったりしていたな、って気づきました。
さらに。
安心感を与える私でいたいということは、私が安心感を与えてほしいということでもあり。
もしかしたら、私が与えなくなったら、
相手からも、もらえなくなるのではないか、と思っているのかな。
“(自分の理解できる内容で)対価を支払わないと、安心感を受け取れない”
前提で生きているのに、
“私が「生きている」というだけで、安心して生きられるようになりたい”
って理想を抱いても、それは難しいんじゃないだろうか…とも思いました。
#自分が解放できていないところを
#世界に求めているような
麻子さんの言葉は、穏やかなキャッチボールみたいに、ぽこん。と飛んできます。
私が受け止められないような剛速球は、こない。
はい。って投げてもらったものをキャッチしようと、目を凝らすと、
ぼんやりと漂う霧の中で、物事に焦点を合わせることができる。
そして、視界がどんどんクリアになっていく。
折々に、そんな言葉をくださる方です。
いろいろ考える入口ができて、おもしろかった!
もうちょい深めてみたいところです。