私には理解できない、それぞれの世界があることを理解する

「発達障害」という言葉は知っていましたが、初めて本格的に情報に触れたのは、長女が「学校に行けない」と言い出してから、ずいぶんあとのことでした。

発達障害の書籍と、HSP・HSCに関する書籍を、何冊か読みました。

最初は、娘を理解したくて…いいえ、正確には「私にとっての価値観で、理解したくて」手に取っていたのです。

いわゆる、わかりやすい世間の基準や判断が知りたかった、とも言えます。

その中で、私が心惹かれたのは、こんなときはどう対応するかという、やり方ではなくて、当事者の思いや視点がわかるもの。

読んでみてわかったことは「本当にはわからないということ」でした。

ひとりひとりの世界

発達障害の子も、ひといちばい敏感な子も、その子なりの世界がある。

言葉や行動にも、その子なりの理由がある。

ただ、私がわからないだけで。

ひとりひとりの目に映る世界は、ひとりひとり違います。

同じものを見て、聴いて、触れても、感じ方はみんな違うんです。

自分はたまたま、大多数と重なっている部分が多かったから、生きていくのに支障がなかっただけ。

そんなあたり前のこと、どうして私は、忘れてしまっていたんだろう。

「母親と娘」というフィルターを取り払ったとき、初めて「ひとりの人間とひとりの人間」として、長女と向き合えた気がしました。

そして、私の世界ではうまく理解できなくても、寄り添うことはできる。

一緒に、幸せに、生きることはできる。

それが、ようやく理解できたのです。

子どもだけではなく、すべての人に

娘が落ち着いてしばらく経ったとき、旦那さんの状況が変わりました。

朝、家を出て、夜中に帰ってくるのですが、どこで何をしているのか、まったくわかりません。

訊ねても、何も話しません。

以前にも何度か同じようなことがあり、私はそのたびに、旦那さんが理解できなくて、泣いたり怒ったりしていました。

けれど、言い合いになって、旦那さんが声を荒げて怒ったり、「もういい!」とシャットアウトされたりするのが、私はとても怖いのです。

生理的にゴキブリが受け付けられない! というのと同じぐらいのレベルで、相手の怒りを受けることが苦手なのです。

たぶん、世間でいう、普通の夫婦の話し合いや、喧嘩はできていませんでした。

夫婦の形にも、課題はたくさんあるのですが、今回ふと気がついたのです。

「娘も、旦那さんも、一緒だ」ということに。

旦那さんなりの世界があって、旦那さんなりの理由がある。ただ、私がわからないだけ。

理解はできなくても、夫婦として寄り添い、一緒に幸せに生きることはできるはずです。

娘だけでなく、旦那さんだけでなく、すべての人にはそれぞれの世界があり、それは互いに尊重されるべきものです。

子どもの頃から教わっているはずのことを、本当に理解するのに、38年もかかるなんて…

我ながら、笑ってしまいますね。

「理解されないからダメ」も「理解できないからダメ」も手放す

とらえ方によっては、薄情にも思えますが。

少なくとも私は、その2つを手放したことで、家族に優しくなれました。

旦那さんは私に対して優しくなり、娘のことも理解しようとしてくれるようになりました。

娘は心を開き、子どもたちの笑顔が増えました。

決して、理解できないから「どうでもいい、知らない、関係ない」ではなく。

理解できないけれど、寄り添うよ、見守るよ。

ということですね。

子どもたちを生んでから、本当にいろいろなことを教えられていますが。

長女が私に1年かけて教えてくれた、人との向き合い方でした。

大好きな娘に、ありがとう。

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