私は、文豪を飼っている。

人間に対して「飼う」という表現が、まことに不適切であることは、重々承知のうえで。
それでも、飼っているとしか表現できないこの感覚を、聞いてほしい。

前に友人と話していたとき、
「あなたの見た目には、その要素ひとつもないんだけど、中に文豪がいるよね。
長身の男性の、頭かきむしって、紙ぐしゃぐしゃってする昭和の」
と言われたことがある。

それがたとえ話でも、スピリチュアルでも、たいした問題ではない。
「ああ、うん、いる。たぶん」
なんの違和感もなく、そう返答したぐらいには、たしかに「いる」のである。

彼は、ふだんメルヘンな絵本の世界で生きている私の内側にいて、
唐突に「人生とは…」などと、小難しい声で、答えのない問いを投げてくる。
難しいことを簡単にしたい私に対して、簡単なことも難しくしてくる、面倒な男だ。

私が文章を書いているとき、実に苦しそうに楽しそうに現れる。
着物姿で、長身をかがめるようにして座卓の前に座り、
もじゃもじゃの髪をがしがしとかきむしっては、紙を丸めて放り投げている。

生みの苦しみだかなんだか知らないが、書かずにはいられない苦悩と恍惚が伝わってくる。
いったいどんな顔で書いているんだろうね。
私は彼の背中しか見たことがないので、その表情はわからない。

今年、私が小説を書き始めてからは、ことさら楽しそうに苦しんでいる。
きっと小説を書きたかったんだろうなということは、よくわかる。

彼は、小説のストーリーには手出ししてこないが、最近やたらと活力を取り戻しているようで、文章のあちらこちらに顔を出そうとしてくる。
簡単なことを小難しく、シンプルなことを複雑怪奇にとらえて、語りたがっている。
真逆な世界観を構築しようとしてくる。カオスだ。

とはいえ、私を超えて暴れるわけでもなく、私と対等にやりあっているわけでもない。
私の中にいて、勝手気ままに世界をややこしくしては、おもしろがっている。
彼の思考を濾過して、シンプルにしていく作業は、私にとってのおもしろさでもある。

奇妙な共生。
ほんとうに「飼っている」としか言えない感覚なのである。

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