【noteエッセイ】わたしの片づけ

「好きなことを、100個書き出してみましょう」

というワークをしたとき、私は、

“整理整頓する”“断捨離する”と、書いていた。

今から6年前のことである。

その頃にはもう、自分の持ち物をあらかた片づけ終えていた。

「人は、持ち物の2割で生きられる」

と聞き、8割を手放してみたから、私は“片づけが好き”になったのだ。

子ども時代は、片づけは果たすべき義務ではあったけれども、好きではなかった。

乱雑さや、ものを出しっぱなしにすることを、母が嫌っていたため、

面倒だと思いながらも、自分なりに整頓はしていた記憶がある。

自分で片づけを始めたのは、やむにやまれぬ事情があった…わけでは、まったくない。

「2割で生きられるのか。じゃあ8割を手放してみよう」

と、思い立っただけなのである。

大々的な好奇心も、悲壮な決意も、紆余曲折もなく、

コンビニで新発売のお菓子に手を伸ばす程度の、思い立ちだった。

片づけを進める過程で、近藤麻理恵さん、やましたひでこさん、ドミニック・ローホーさんに影響を受け、

自分に落とし込む中で、多少の調整は必要だったものの、

大きな迷いや壁にぶつかることなく、初めての大片づけを終えたのだった。

華々しいエピソードも、ドラマティックな展開も、出てこない。

淡々と片づけた。たぶん、きっと、それだけだった。

頓挫する要素もないほどに、私は“片づけ”を必要としていたのかもしれない。

なぜ、戸惑いなく「8割を手放してみよう」と思ったのだろう。

そのときの私は、“変わりたかった”。

結婚して、子どもに恵まれ、義理家族と同居し、嫁いだ土地に少しずつなじみ、

このままここで生きてゆくのだろうと、何となく感じたとき。

今の自分のまま、これからを何となく生きてゆくことが、嫌だと思った。

だから、片づけに惹かれたのだろう。

目に見えて変化のわかる、私にとっては母から教え込まれていたゆえに、もっとも簡単だった方法に。

片づけは“片をつける”ことだった。

借り物の価値観と、過去の自分に。

捨てるか残すかの決断は、どんなふうに収納するかの判断よりも、自身の価値観を問われる。

「何となく」を残したままでは、8割の持ち物を手放すことはできない。

「学校関連のものは、丁寧に整理して保存するべき」

「賞状は大切なもの」

「頂き物は処分してはならない」

「高価なものや一生ものは、大切に持ち続けなければならない」

「あっても困らないが、ないと困るに違いない」

「ものを捨てるのはいけないこと」

書き出せばきりがないほど、私の基準は、他人に借りてきたもので溢れていた。

特に、親からの教えは大きい。

ものを大切にするのは、とても大事なことなのだけれど、

何をどのように“大切”にするか。

ここの大部分を、親の価値観をなぞるだけで、自分で選ばずに生きていたのだと、思い知った。

何枚も皮を脱ぎ捨てていくように、考えずに纏っていた価値観を剥いで、

「私は、どうしたい」を決断し続けた。

それは、とても気持ちがよかった。

さらに、過去の私が一生懸命に取り組んだ思い出の品とも、向き合った。

自分の好きを、努力の跡を、過去をふり返ることでしか表現できないなら、

これからを生きるためには、重荷になるものだと判断した。

見返したときに、これからを生きる活力になる、と感じたものだけを、手もとに残した。

後生大事に抱えようとしていた「昔は良かった」の材料を手放せたから、

いま軽やかに、これからを楽しめる私がいる。

片づけが好きなのは、まだ片をつけたいことがあるからなのだろう。

知ってみて、やってみて、その上で片をつけて生きていく。

自分の人生という本棚に、選び抜いた一冊を、丁寧に並べてゆくように。

片づけながら、生きていく。

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