ふと目に映る景色が美しく、心打たれる瞬間がある。
切り取って、記憶に残しておきたいと思う。
そこで問題なのが、私の普段の移動手段が、もっぱら車だということだ。
運転している最中に、あたり前ながら、写真は撮れない。
おまけに、私の外出のほとんどは、誰かの送迎で時間厳守だったり、
買い物途中で生鮮食品を積んでいたりする。
車を停められる場所を探して、車を降りて、カメラを構える余裕がないのである。
通りすぎる一瞬で、目に焼きつけておくしかない。
もちろん安全第一なので、のんびり見てなどいられない。
これが自分ひとりの移動スケジュールで、徒歩か、せめて自転車ならば。
ああ、学生時代が今さら恋しい…と思いかけて、思い出す。
30分かけて自転車通学していたから、確かに余裕はあったけれど、
そもそも携帯端末がない時代を生きていたのだった。
高性能カメラも、アプリを備えた携帯も、気軽に写真で交流できるSNSもなかった。
いつの頃にせよ、私の人生に、日常の感動の前に立ち止まって、
心ゆくまでシャッターを切る時間は、どうやらなかったようである。
自分自身で記憶しておくしか、感動を残す術がない。
――ああ、だから私は、言葉を選んだのかもしれない。
カメラがなくても、スケッチブックがなくても、
言葉だけは、いつも私の中にあるから。
いつでも、どこでも、何をしながらでも使える。
この美しさを、心が震える喜びを、言葉で表すにはどうしたらいい。
考え続けると、目に映った景色が、どんどん鮮やかに根づいてゆく。
書きとめた言葉を見るたび、美しい一瞬の感動が、アルバムのように甦る。
私は、言葉で記憶を綴っているのだ。