子どもと、雪と、母親と

今年は降らないね、なんて言っていたら、いよいよやってきました。

心ばかりの雪の朝です。

道の端っこや庭先が、わずかに白くなっています。

私はどうしても、子ども時代の雪のイメージがあるので、

「たいしたことないな…子どもたち、楽しみにしていたのにな」

そう思ってしまいます。

何なら、お年寄りのように「昔はもっと雪も多かったのにねえ」

…とさえ言ってしまいそうなほどの、ささやかな積雪だけれど。

子どもたちは「おおー! 雪だ!」と、ちゃんと喜んでいましたよ。

次男は、それはそれは嬉しそうに、雪のある場所を選んで歩きながら、保育園へ行きました。

楽しめるか、楽しめないか

子どもたちが喜ぶから、少しは積もってほしいけど、あんまり多いと嫌だな…などと、勝手なことを考えていた私ですが。

息子と一緒に、新しい雪を踏むのは、とても楽しい。

水分を含んでびちゃびちゃになっていない、きゅっとした感触が好きなんですね。

同じように、みぞれ雪はあまり好きではないけれど、ひらひら舞う軽い雪は好き。

保育園へ送り届けるまでは、荷物が濡れるし息子も濡れるし、降らなきゃいいのにと思うのですが。

帰り道は身軽で、顔にかかる雪の感触さえおもしろく、冬の空気を味わう余裕もあります。

この、四季折々の自然を楽しめるかどうかの違いは、いったい何なのでしょう。

考えてみると、

  1. 自分以外の人間のお世話をしなくてもよい
  2. 濡れ物・汚れ物の片づけをしなくてもよい
  3. 時間を気にしなくてもよい

この3つに尽きます。

「しっかり準備をすれば、泥遊びや水遊びを楽しめる」とはよく言われることですが、私にとっては少し違っていて。

あくまで、「しっかり準備をすれば、子どもたちを楽しませてあげられる」であって、自分が心底楽しめるわけではない。

それは、子どもたちの遊びのサポートや体調管理をしなければならなかったり、遊び終えたらお風呂に入れて洗濯しなければならなかったりするからで。

たくさんの雪を素直に喜べないのも、決まった時間に車を出さなければならなかったり、荷物を持って用事をしなければならなかったりするからです。

子どもの頃は、汚れて濡れて帰ると、文句を言いながらも服や家を片づけてくれたのは、いつも母でした。

その日のうちに終わらせないと、後の自分が困ることなんて、何もありませんでした。

せいぜいが、宿題ぐらい。

だから気楽に、心から遊びを楽しむことができたのだと思います。

私はどうやら今でも、自然そのものが嫌いなわけではなく、それを楽しむための前後の手間暇が嫌いなんですね。

――ああ、だから。

海や雪山に出かけたら、銭湯に寄って、ごはんも食べてから、帰りたい。

ウェアやタオル類など、借りられるものは借りてすませたい。

準備や後片づけに手間のかかることは、公的イベントに参加して体験したい。

そういうことか(笑)。

さて今日の雪も少しばかり面倒だなあと感じつつ、でも我が子の楽しそうな顔が嬉しくて、タオルを準備して待つ私は、やはり母です。

子どもたちのように、ただ遊びたいな…と、心の片隅で憧れながら。

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