学校に関する、私の“あたりまえ”は、
朝から放課後まで、毎日学校に通い、教室にいること。
欠席は、通院が必要な体調不良時のみ。
#私の学生時代がこれ
【不登校で向き合ったもの②―ずるい―】
なので、子どもに対しても、同じように思っていました。
心の症状が体に出てきて、言葉にならないほど辛そうな姿を見たから、
わが子が休むのがずるい! 私は休めないのに! とは思わなかったけれど。
ほかの生徒さんや親御さんに、ずるいと思われるんじゃないか…という気持ちは、たくさんありました。
わが子も、似たような感じ方をしていたみたいです。
自分だけ、学校に行かずに、違う場所で楽しんでいる。
教室じゃない場所で、みんなより勉強せずに過ごしている。
課題も、調整してもらっている。
誘われた行事は、本番にだけ参加する。
「ずるいって思われるんじゃないかな」
ある日、涙を流して、子どもが言いました。
みんなと同じにできるなら、そうしたい。
同じにできるようになるなら、何も考えず感じない体になりたい。
そうしたら、できるようになるから。
できるところを、できるぶんだけ。と、先生や友達は言ってくれてたけど、
それしかないんだと、わかってはいるけど。
――できないんだよ。
そんなわが子に、0と100以外の、たくさんの選択肢を、
一緒に考えてくれた先生や友達には、感謝しかありません。
子どもたちの不登校につきあって、感じたのは。
ずるいって思うのは、その人が、嫌なことやしんどいことを、頑張りたくないけど、頑張っているからなんだろうな。
ということ。
学校に行きたくないけど行ってる人にしたら、体調不良でもないのに休めるなんて、ずるい。
宿題がしんどくてたまらないのにやっている人にしたら、
しんどいだけで、できなくても怒られないなんて、ずるい。
普段の授業が嫌で、行事を楽しみに毎日頑張ってる人からしたら、行事だけ来るなんて、ずるい。
でも、わが子を迎えてくれる子たちは、
「嫌なこともあるけど、学校楽しいよ。友達と会えるし、しゃべれるし」
「宿題、大変だけど、先生にほめてもらえたんだ」「テストでいい点取れたんだ!」
「○○ちゃんと、少しでも一緒にいたいんだ。普段会えないから、一緒に思い出作りたいんだ」
って、言ってくれていました。タイミングが合うときも合わないときもあったけれど、
本人なりの頑張りを、まっすぐに受け止めてくれる子が、たくさんいました。
“ずるい”の気持ちは、頑張りの証なんだと思います。
ちょっと本意じゃなく頑張りすぎ、無理しすぎなときは、誰もがゆったり休めるようになったら、いいな。
だけど本当は、不登校の子たちが、
「みんな学校に行けるなんて、ずるい…!」
と悔しくなるぐらいに、学校が楽しい場所になったら、もっといいな。
そう、願っているのです。
☆③へ続く☆