帯に、こう書かれている短編集です。
怒りは消えない。それでいい。
あのころ言葉にできなかった悔しさを、辻村深月は知っている。
どきりとさせられますね。
読んでいくと、お腹の底に、もったりとした重みを感じます。
ああ、確かに、あの頃の私がいる。
佐和にもナベちゃんのヨメにも、佑にも美穂にも、スミちゃんにも母にも、早穂にもゆかりにも…どちらの立場にもなり得た、私がいる。
読後感は爽やかではなく、むしろまとわりつくような。
もう忘れているはずなのに、実は囚われている過去が、とぐろを巻いているような。
だけど、不思議と嫌悪感を抱かずにすむのは、辻村深月さんの力なのでしょう。
私自身、集団生活は下手だったし、イタい女子だったし、醜くてみっともない生き物だった瞬間はたくさんあります。
過去に関わった人数分だけ、私が覚えているのとは違う「私」が、この世界に存在しているんだな…と思うと、あたり前のことなのに、そら恐ろしいです。
写真に焼きつけるみたいに、印象に残った言葉が、2つあって。
ひとつは、「早穂とゆかり」の中で、ゆかりが早穂に向けて放ったもの。
「当時の自分が、見えない世界について、一体どこまで何を信じていたのか。確かに演じていたし、嘘をついていた。
だけど、途中から実際どこまで自分が自覚的だったかわからない。
それくらい深い嘘の世界を生きていた私は、あなたの言う通り、虚言癖の持ち主だったんだと思う。
――思うに、こういう性格もクセも不安定さも、現実との折り合いが自分の中でついてくれなければ消えないの。
そして、今、私は折り合いがついている」
この感覚、まさにその通り。
私も、ようやく今でこそ折り合いがついた――と思うけれど。
昔持っていた、言葉にならない危うさが集約されている台詞です。
もうひとつは、「ママ・はは」のスミちゃんの、子育ての正解って何だろう? という場面。
「成長した子どもが、大人になってから親の子育てを肯定できるかどうか」
「人生は長いからさ。大人になってから子どもに自分がやってきたことを肯定してもらえないと、いざ対等な状態になった子どもに見捨てられることになるよ。
感謝されないし、仲良くしてもらえない。保護者と被保護者はいずれ、介護だなんだで逆転するんだしさ」
これは、今の心境が、かっちりとはまります。
ああそうか、両親には、育てられ方を肯定できるような親であってほしかったんだ。
私は、我が子に肯定してもらえる育児をしたいんだ。
その視点で考えてみると、心に食い込む本や言葉は、「自分も相手も否定しない」ものが、確かに多いです。
記憶の底に沈んでいる、言葉にならない破片を、辻村深月さんが紡いで物語を織ってくれました。
読んで、よかったです。