滅私(羽田圭介)

帯が、

必要最低限の物だけで生活するミニマリストの男。

物欲から解放され自由を得たはずが、なお因果は尽きず……

シンプルライフに憧れている私としては、とりあえず読んでみたくなりました。

章立てがなく、回想もあくまで「現在の本人の視点で思い出す」形で、ずっとひとつながりに物語が進むので、一気に読んでしまいました。

おもしろい。そして深い。

一度でもミニマリストやシンプルライフにハマった人なら、ほぼ通る光と闇かもしれない。

私も例外ではありません。

とにかく刺さる箇所が多くて、自分が極端に走りすぎないように、書き留めておきます。

物を捨てるのに目覚めた人たちの大半は、“己の幸せを物に頼っていた”という過去を持つ。表裏一体なのだ。目に見える状態が違うだけで、捨てまくる僕と買いまくる時子は、本質的に似ている。

ほぼ三〇代以上の人たちばかりで構成される皆に共通するのは、物はいらなくても金はいるということであった。今の時点で物はいらなくても、物をいつでも買い所有できる安心感は、必要なのだ。
だから捨てにハマるのは、物なんていつでも買えると思っている経済的余裕のある人間か、限られた可処分所得の中で幸せを感じようとする貧乏人のどちらかにふれている場合が多い。

両親は物を買い換えない人たちなのだと思う。僕らのように、最小限のより便利でスタイリッシュな物に買い換える人間たちのほうが、多くの物を買い、捨てる。
家を散らかしている両親のほうが、物欲は少ない。溜めたいだけなのだ。目に見える空間に物があるかどうかの違いだ。すぐ売ったり捨てたりする僕みたいな人間より、二十数年前のくたびれたプラスチック製品を頓着なく使い続けている人たちのほうが、地球環境には優しい。物にとらわれているのはどちらなのか。

捨て思考になると自分にとって大事なことの意志決定能力は高まるが、それ以外の曖昧なものや混沌、難しいものが苦手になり、どちらかにふりきったものしか受けつけなくなる。

「捨てる」「減らす」ことそのものに囚われてしまうと、このような極端さが生じてきます。

私も体験しました。

そして、かつて紙と本と雑貨に埋もれた机で、毎日小説を書いていた私には、この感覚もよくわかります。

なんだろう、この妙な居心地の良さは。
手を伸ばせる距離にはいくらでも本が置かれている。文机が広いこともあり、部屋全体が、何かを生み出せそうな気配につつまれていた。
いっぽうで、自分のワンルームをかえりみる。認めざるをえないだろう。無駄を削ぎ落とし、必要なことしかしないで得られる満足感は、無意識下のカオスからなにかを生み出す快楽に、負けるかもしれない。

主人公が、服を買うよう恋人に勧められたときに、買う手間や保管する手間・処分する手間を考えたら「買わない方が楽だよ」と答えたら、

「楽って、そんなに楽してなにがしたいの?」

と訊かれます。

“たしかに、そんなに楽してどうしたいのかと思った。持たないことで金銭的、空間的な煩雑さから解放され得た余裕で、次になにがしたいのか。”

主人公は、まだ答えを持っていません。

できた余白に入れたいものがあってこそ、「捨て」が生きてくるのでしょう。

私の場合は、子どもと過ごす時間であったり、自分の好きなことを楽しむ余裕であったり。

すべてが計画通りにいくわけがない暮らしなのて、予定外の対応に心身を使い果たしてしまわないように、新しい興味が出たら飛びつけるように、余白がほしいと思ったのがきっかけでした。

でも実際は、確かに前より時間の余裕はできたものの、片づけた分だけどんどん細かい部分が気になってしまい、掃除や整理整頓には追われている気がします。

「捨てた」「片づけた」その先までビジョンがないと、簡単に「捨ての魔力」にはまり、それを正義としてしまう。

私は片づけるだけの段階はもう過ぎていて、次はそこに「自分」を配置し、人生を組み立てる段階。

であるならば、心してかからねば、ですね。

想定外のものを背負って生きてゆくという覚悟は、真の意味で人間らしくなれるような予感も、僕にもたらした。

この感覚、忘れないでおきたいです。

ちなみにこちらの本、装丁も素敵でした。

表紙をめくると、

透かすことで白黒グレーの色合いになり、重ねることでひとつのものが形になる。

どこか一部を捨てたら、文字にはならないところが、いいなあと思いました。

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