車を走らせて、目的地に向かっていたときのこと。
道中、のぼりや横断幕を掲げたデモ隊が、2列で車道を歩いていた。
とっさに思ったことが、
危ないなあ、車の走行の邪魔だなあ。せめて1列になるか、歩道を使えばいいのに。
だった。
警察等の許可や安全管理がどの程度だったのかまでは確認できなかったけれど、正直なところ、不快な気持ちが大きかった。
主義主張の内容を感じとり、考える以前に、思いがそこで止まってしまう。
何とももったいないことである。
さて、用事をすませた帰り道。
今度は前方から救急車が来るのが見えた。
私はもちろん、前も後ろも、誰もが道を譲り合って停まる。
実にやさしさに満ちている。
デモ隊に苛立つ世界よりも、こういうやさしい世界がいい。
だがしかし、ちょっと待て、と私の理性が訴えた。
最初のデモ隊と、今の救急車と、何が違うというのだろう。
命がかかっているかどうかとか、活動の理念や内容だとか、そんな違いはあるけれども、
それは私が語ることでも、判断することでもないのではないか。
デモ隊に対して、私がもし「頑張って活動しておられるのだな」と思ったなら、
危ないなとは感じても、邪魔だとまでは思わなかったのではないだろうか。
つまり、やさしい世界というのは、誰かの何かの周りにあるものではないのだ。
あくまでも、自分の心の中にあって、自分が作り出すものなのである。
これを新しい発見だと感じてしまった自分に、何より絶望する。
まさか、今までまったく気づいていなかったのだろうか。
腹の底がねじれるように痛んだ。
ゆっくりと息を吐き、内臓を整える。
自分の無知を恥じ、受け入れ、整える。
やさしい世界は、私の中にある。
正しく外に出されるときを、今か今かと待っている。