先月からさわり始めた、noteとInstagram。
文章は書きやすいのだけれど、写真がいまひとつしっくりこなかった理由が、ちょっとだけわかりました。
【「伝えたい」熱を込める】
もう少し写真に挑戦したかったので、ときめくものを探して散歩しながら、スマホでいろいろ撮ってみました。
お友達からいただいたアドバイスをもとに、
“文章とペアにできるような写真”を意識して集めた風景は、
見返すと、素晴らしくはないにせよ、悪くもない気がしたんです。
少なくとも、私が綺麗だなって思ったものは、それなりに写っていました。
その翌日、実家の父が、散歩コースの桜の写真を送ってくれたんです。
空の青と、草の緑と、淡い桜色。
同じ色彩の写真だったのに、私の心は、断然そちらにときめきました。
父は、高性能なカメラを使っているわけでも、技術が優れていて構図がプロ並みというわけでもありません。
普通のスマホで、普通に撮っています。
それでもなお、自分の写真よりも、父の写真のほうが好きだと思ったんですね。
なぜなんだろう、とずっと考えていて、ひとつわかったこと。
私の写真は「綺麗だな」という気持ちはあるけれど「伝えたい」思いがのっていないんです。
父の写真は、家族に「桜がこんなに綺麗だったよ!」と、伝えようとしてくれている。
違いは“熱”です。
私にとって、文章と写真との違いは、その“熱”がどれだけ込められるかなんだな、って。
言葉を綴るとき、私は伝えたくて書きます。
#私という生き物はそのようにできているみたいです
だから、ただ「ときめく瞬間を写真に撮りたい」じゃだめなんだ。
「このときめきを伝えたい」と思って撮った写真じゃないと、だめなんだ。
っていうのが、腑に落ちました。
逆の視点で見ると、離れて暮らす親に送るために撮る子どもの写真には、伝えたい気持ちがちゃんと入っているから、
あとから見返して、なんとなくお気に入りの一枚になることがあるんだなあ…とも。
特に伝えようとしていないものが、特に心に響かないのは、考えてみれば、あたり前ですよね…。
それをあえて、やってみないとわからないあたりが、不器用すぎるw
でもこれで、文章と写真に対する解像度が、少しだけ上がった気がします。
この気づきをもとに、引き続き、文章も写真も、挑戦してみようと思います!