すべては「感謝」だった

今日は、めちゃくちゃ反省したお話です…。

【すべては「感謝」だった】

祖母のおつかいで、届け物の道中、私はちょっぴりイラついていました。

その頼まれた経緯が、あまりよろしくなかったんです。

他所様に物を差し上げることが大好きな祖母は、

#それ自体は善行ではあるのだけれど

加齢とともに出歩ける距離が短くなってきたので、「誰々に何某をあげたい」と思い立つたびに、私を呼びます。

その回数が、あまりに多い!

そして、何度お願いしても、こちらの都合を訊かずに、

「今から嫁が持っていく」と、先方に連絡してから、私を呼ぶ。

#私は24時間対応のナースコールではない

さらに、届け先がことごとく、細い路地裏のような入り組んだところで、車の運転のプレッシャーが半端なくて。

この3つが、私にイラつきをもたらしていたわけです。

とはいえ、不機嫌を表に出して、周りにぶつけるのも嫌なので、先方へはきちんと笑顔で向かいます。

今日届けた先のお家には、腰の曲がったおばあちゃんがいて、

「(私が受け取りに行くべきなのに)横着して申し訳ない。ありがとう、ありがとう」

と、頭を下げてくださったんですね。

で、帰り道、私に向かって手を合わせて、拝んで見送ってくださるんです。

そこまでしていただいたら、ちょっとでもイラッとしていた自分が恥ずかしくなって、

先方のおばあちゃんには、逆に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

そのまま車を走らせていたら、たまたま通りかかったお寺の掲示板に、こんな言葉が書かれていたんです。

“人に親切にできることに感謝”

読んだとき、ハッとしました。

確かに…こうして時間の融通をきかせて、おつかいができるのは、今フルタイムで仕事に出ていないからだし、

自分の車があるから、物を運んで届けることもできる。

その時間の余裕と車とを、私が持てているのは、旦那さんが頑張って収入を得てくれているおかげで。

先週末は体調を崩していた私が、今日元気に動けているのは、娘が週末、母の代わりに頑張って、休ませてくれたおかげで。

そうやってたどっていくと、私が今生きていて動ける、心身の健康へのありがたさや、

親切心を育んでくれた親や友達への感謝にも繫がります。

最終的には、世界のすべてに「ありがとう」になる。

なんて深い言葉なんだろう…!

感動するとともに、意に染まないおつかいに、ついイライラしてしまったことを、がっつり反省しました…。

もっと器の大きい私になりたいな。

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