【noteエッセイ】言葉遊び

子どもが体調を崩している。

看病をし、本人が望む限りはそばにいて、合間に家事を進める。

そうして、うとうとと寝入った顔を眺め、ほっと息をつきながら、こうして文章を書く。

頭や体はぼんやりしていて、ゆっくりと考えを深める時間はないはずなのだけれど、

言葉を並べて、こね回していると、不思議に癒やされる。

こんなとき、普段の日記よりも、詩やエッセイが書きやすい。

理由は、たぶん二つある。

一つは、文章の「長さ」。

私の書く詩やエッセイは、日記よりも短いため、時間や体力がなくても、さらりと手を出しやすいのだ。

長編を書くのが、コース料理をいただくようなものだとしたら、日記は定食、詩やエッセイはバイキング料理に近いと思う。

コース料理をいただくには、相応のマナーや身だしなみをまとわなければならないし、費用もかかる。

かなりの準備と気合いを持続させなければならないのが、長編である。

いつも書いている日記は、定食なので、身近で気軽ではあるが、

バランスよくしっかりといただくためには、ある程度の好き嫌いは克服しなければならない。

食べ慣れない食材でも、出されれば挑戦する必要がある。

詩やエッセイは、好きな部分だけを選んで描いていくので、まさにバイキング料理なのである。

二つめは、たどる「道筋」。

以前、ストレングスファインダーの解説をしていただいたことがあるのだけれど、

(数秘術やストレングスファインダーに詳しい、中崎雄心さん↓https://note.com/mumeijiten)

私は「初見には弱いが、予習済みには強い」という性質がある。

それで言うと、日記は、その日感じたことや考えたことを深掘って言葉にしていくから、まさに「初見」の、道なき道。

詩やエッセイは、一度考えや感覚を深めた物事を濾過して、上澄みをすくって描くので「予習済み」。

道のあるところをたどっていくからこそ、すきま時間に楽しく書けるというわけだ。

幼子が延々と、粘土をこねてちぎって遊んでいるように、私は言葉で遊んでいる。

――わが子の瞼が、ぴくりと動いた。

本日はここまで。

私はまた、母に戻る。

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