ささぶち ひろみ さんの投稿を読んでから、“比較”について、考えていました。
(内容は、最後に引用させていただいております)
【“比較”について、考える】
今日は、私の思考の流れのまま、書いてみますね。
#脳内実況中継!
まず気がついたのは、“比較”という言葉に、私はあまり良いイメージを持っていない、ということ。
だけど、単語の意味自体は、
『2つ以上の物事や概念を対象に、共通点や違いを見つけるために行われる行為や方法を表します。』
ということで、特に悪印象はありません。
たぶん、私が引っかかっているポイントは、
『比較は、物事をより理解しやすくしたり、選択肢を比べて優劣を判断するために役立ちます。
例えば、商品の値段を比較してお得なものを選ぶ、二つのアイデアを比較して優れた方を選ぶ、といった具体的な場面で比較がよく使われます。』
この“優劣を判断する”というところ。
引っかかっている、ということは、私は“優劣をつけること”が、悪いことだと思っている可能性があります。
どんなときに、そう感じるのかというと、特に“人に対して”かな。
得意不得意が凸凹な子どもたちを育てていく中で、
一面だけを見て「この子は、他の子よりできない」って判断されるのが、嫌だった。
善悪とか、勝ち負けとか、ジャッジつきの人間同士の比較が、私はしんどいです。 でも、優劣があるのは、得意不得意がある以上、あたり前だとも思っていて。
#順位をつけない徒競走とかは理解しがたい
#その手段では目的にたどり着かない気がするから
つまり、自分に都合の悪いジャッジが下る比較だけが、しんどい!
私が否定されたような心境になるときや、私自身は高評価だったとしても、いたたまれない気持ちになる環境だと、比較は嫌だ…。
自分に都合がよければ気にしないのは、めちゃくちゃ人間らしいなと思うけれどw
――だとするならば、ですよ。
世の中、結局のところ、
みんながそれぞれに、てんでばらばら、好き勝手に、比較してジャッジして生きているわけで。
私が比較を嫌がったり、怖がったりする必要は、まったくないのでは?
気をつけるとすれば、必要以上に、自分や他人に主観を押しつけることぐらいで…。
#あの人は間違ってるとか
#私はなんてダメなんだとか
そして、さらに気がついたのだけれど。
私の“比較”は、限りなく主観的なものが多いです!
前提条件をしっかり決めて、データを並べて論理的に説明する。ができなくて。
この前提ならこう、その条件ならこう…と、あちこちに飛んで定まらない上に、
#この文章以上に
#脳内は常に飛んでいるw
「なんとなく私はこっちがいい」で、比較してジャッジするから、まったく論理的に説明ができない。
だから、自分が思うように、人に伝えられない。
だから、比較することに、苦手意識も持っている。
あっ…「人を主語にして話している」って、これ!?
#天才を殺す凡人
まず、比較と主観的なジャッジが、ひとつのものとして、私の脳内にはあるんですね。
それを取っ払ってみたら、比較は、ただのグラデーションやコントラストで。
むしろ、豊かさや美にすらなるもの。
#繊細な比較から生まれる芸術
そしてまた、比較は、多視点の才能でもある。
“比べる”ということは、俯瞰できるということで。
自身の主観的な視点以外に、客観的な視点を持つ力がある、ということで。
#ジャッジを下す視点はまた別
#ふたつ以上の物事を俯瞰で見て判断する力がある
思考がちっともまとまる気配がありませんが…。
比較するか、比較しないか。
それさえも、どちらがその瞬間の自分にとってよりよいのかを、
“比較して”選んでいる、のが私なんだな。
と、思ったところで、いったん終わりにします。
#こういうとりとめのなさを
#普段は切り取って読みやすくしています
本文のシェアがうまくできないので、ささぶちひろみさんの投稿を、以下に引用させていただきます。
比較しないのは大切だけど
比較しないとわからないこともある
比較するのが好きではないのに
無意識に比較していることがある
私はみんなみたいに〇〇ができないと
いつも自分のできないところを
知らない誰か大勢と比較してることに気がついた
なぜ、できるところを比較しないのだろう?と思いました。
考え方のクセだったり性格とか、これまでの経験からそうなったと思う
でも、比較したり比較される場所にも身を置かないと成長がない
比較しない世界と比較する世界のバランスなんだなと、思いました
時と場合により選べる柔軟性があるといい