クレープが好きだ。
定番のクリームにフルーツを詰め込んだものも、
ハムや卵、レタスや胡瓜といった、食事系統のものも、等しく好きである。
だが実は、クレープの何がもっとも好きなのかと問われれば、
あの幾層にも重なった皮である、と答えよう。
そのようなわけで、何よりも皮を堪能できる、シュガーバタークレープが、大好物である。
或る日のこと。
生鮮食品を買いに出かけたら、店の前に、クレープのキッチンカーが停まっているではないか。
迷いなく、買う。
これは、買うか買わないかの問題ではない。どれを買うか、なのである。
本日の気分は、食事か、甘味の皮だ、と魂が叫んでいる。
さて、どちらにしたものかと考えていたら、ふいに心の声がした。
「何ゆえに、ひとつしか買わないことを決めているのか」
言われてみれば、もっともである。
両方とも買えばいい。誰も私を咎めはしない。
数ある中から、ハムチーズとシュガーバターを選ぶ。
家に帰り、お茶を淹れ、ゆっくり食べるとしよう。
最後の一口は、甘いシュガーバターの尻尾でしめくくるのだ。
大事な余談であるのだが、クレープは尻尾が命といっても、過言ではない。
我が子が、クレープの真ん中を齧っていったとて、私は決して怒りはしない。
だがしかし、万が一にも尻尾を食べられた日には、そうとう根に持つことを、断言する。
本題に戻ろう。
受け取ったシュガーバターは、熱々の焼きたてなのである。
焼きたては、もちろん、すぐにでも食べたい。
シュガーバターだけ、いま食べるか。
しかし、そうすると、甘い尻尾でしめくくる欲は、叶わない…
悶々と悩んでいると、また心の声がする。
「熱いうちに、半分食べればよいではないか。
もう半分は、望みどおり、ゆっくりと家で食べるのだ」
なかなかに良い折衷案である。
心の声に従い、シュガーバターを半分食し、帰宅する。
茶を淹れて、ゆっくりと、残りを食す。
口じゅうで頬張ったら、おいしいなあ。と声に出したくなったので、
「おいしいなあ!」
ひとりごちると、朗らかな笑顔が、自然にあふれてきた。
嬉しくなり、クレープを眺めたら、巻かれて層になっている皮が、目に入る。
この重なった層を見ながら、女性としての外聞など気にもせず、勢いよくかぶりつくと、
美味しさが倍増して、実に幸せだと感じるのである。
いまの私は、自分が「こうしたい」と思ったことを、すべて叶えている。
心も体も、歓喜に震えているのが伝わってくる。
自分がそれを望んだ、と意識し、掴みにゆく体験は、大きな歓びに満ちているのだ、と知った。
或る日のクレープをめぐる物語。