母娘の関係について書かれた本です。
おもしろいのは、物語になっていること。
体験談や、語り部から教わる形ではなく、「架空の女性の物語をもとに、娘の気力を奪っていく母の支配からどう自分を守り、どうやって母との適正距離を作り直していくかを考えていく」スタイルなのです。
物語なので、気持ちの動きもよく伝わってくるし、実践もしやすいんですね。
章の間には、カウンセラーのコラムがあり、より理解を深めることもできました。
母であり娘であり、また長女の子育てを通して母子関係を考え直していた私に、うってつけの1冊です。
主人公と一緒に揺れ動きながら、記憶に留めておきたいと思ったことを、自分の処方箋にするために、整理しておくことにします。
気づかされた言葉
「私の母は、まったくその通りだった!」と思ったのが、こちらの一節。
年頃の娘に対する母の言動は矛盾だらけといってもいいでしょう。
多くの母親は一〇代の娘に恋愛禁止を言い渡し、二〇代の娘の彼に難癖をつけますが、三〇代の娘が結婚せず子供もいないというのは恥ずかしいと考えます。
思春期には性の匂いのしない“いい子”として育てるものの、結婚適齢期が近づくと商品のように娘を売り出そうとし、結婚しない娘に対して人生を否定するような言葉をかける。
その言動に論理の一貫性など見られません。
多くの母親は自分の判断基準は社会的な常識や規範のうえに成り立っていると主張しますが、よく見ると自分にとって都合の良い常識に乗り換えているだけなのです。
これ、自分の子どもに対してもやってしまいそうで、怖いのと同時に。
ああ、だから私は、母の言うことに納得がいかなかったんだな、とわかりました。
「私はこう思うの」ではなく、「これが常識で、社会的に正しいのよ」と論理的に言われるから、論理的に納得しようと思うのだけれど、うまくできなかったのです。
もしも、親からのいろんな言葉を「これは親個人の考えで、私には私の考えを自由に持つ権利があるんだ」というふうに受け取れていたら、ずいぶんと苦しさは少なかったことでしょう。
また逆に、私が意外だったのは、こちら。
精神的な虐待や言葉の暴力で支配をする母もいれば、“友達親子”のように隠しごとのない関係を強要することで、子供の自立心を奪う母もいます。
自分の親が、支配的な関係だったので、私は友達親子を目指そうと思っていたのですが。
一概に「友達のような」といっても、必ずしも支配や過干渉に繋がらないとは限らないんですね。
さらに、「親のようになりたくない」という感情的な反発だけでは、自分を制御するには不十分で、結局、親と同じような行動をしてしまう危険があるそうです。
それを避けるためには、「母というひとりの人間を色々な方向から多面的に研究し」「その人生を自分なりに考えていくこと」がよいとのこと。
それによって、母の言動の理由を突き詰めることができ、固定的だったとらえ方が変わってくる。
母の言動の法則がわかれば対応しやすくなるし、それを子どもに連鎖させないための対策も、具体化できるのだと書かれていました。
三世代にわたる考察になるわけですね。
救われた言葉
本来娘は――というよりも子供はすべて――親に負い目を感じる必要などありません。
無事に生まれ、親に子育ての楽しみを与えただけで親孝行は完了しています。
コラムにあったこの言葉は、物語の中では、以下のように主人公にかけられます。
「きっとお母さん、なんだかんだ言って、お前を育てているあいだは楽しかったんじゃないかな。
だってお前、お母さんに逆らわない“いい子”だったんだろ?
それで十分じゃん。それだけですごい親孝行だよ」
その通りです。
私は、子どもを生み育てることで、無上の喜びをもらいました。
「私の子どもに生まれてきてくれて、ありがとう」
ただそれだけの気持ちでした。
これは絶対に忘れてはならないし、また私も母に同じ喜びを贈れたのだから、期待に応えられないことを負い目に感じるのは、やめよう。
母としても娘としても、深く感じ入る言葉でした。
心がけたい言葉
人はしばしば自分を優位な位置に置くために、人生経験の差を利用することがあります。
「子どもを生んだらわかるよ」「年を取ればわかるよ」「母親じゃないからわからないんだよ」
こんな台詞を、親をはじめ、大人たちから言われたことがあります。
私も、何の気なしに、娘に言ったこともある。
けれど、考えてみたら、ずるい言葉ですよね。
自分を優位に立たせるだけではなくて、ともすれば、「だからあなたにはわからないよ」と、互いを理解しようとする気持ちすら拒んでしまうのですから。
無意識に発しがちな言葉だからこそ、気をつけたいですね。
最後に
けれど、私は完璧な親にはなれないし、娘にとって最善の関係を、常に築くことは難しいでしょう。
互いの気持ちにも関係にも波はあるし、どんなに気をつけても独りよがりになることも、ままあるでしょう。
そんなときは、この言葉を思い出して、自分を責めたり、周りを苦しめたりせずに。
その自分を受け入れて、愛した上で、それでもなお最善であろうとする私でいたいと思います。
どんな親も、微毒を含んでいるものです。美しいバラには棘があるように、うるわしい母の愛には必ずわずかな毒が含まれているものです。
しかしそれが猛毒になると、子供の存在を呑み込んだり、押しつぶしてしまいかねません。
必要以上に連鎖を恐れることは、不自然なまでに毒を否定することになり、かえって危険です。
微毒は当たり前、と捉えることで私たちはかろうじて猛毒になることを免れる、そう考えています。