知ろうとする

思春期だった頃、自分の好きな物事や価値観を、親は理解してくれないと感じていました。

「もっと子どもを信じてくれたらいいのに」

そんな反発心を抱いたことは数知れず。

だから私は、我が子にはちゃんと向き合おう、気持ちに寄り添おう、決して否定はしないでおこう。

と思っていた、はずなのですが。

――なんて難しいんだろう!

運動部に入ろうとした娘に、「あなたがいいならいいと思うけど…」と、微妙な言葉をかけてしまったり。

スマホやSNSの使い方に、つい先回りして口を出してしまったり。

「ユーチューバーになりたい!」と言われたら、内心どうしていいやらわからなくて「う、うん…いいんじゃないかな」と濁してしまったり。

確かに、頭ごなしに否定はしていないけれど、もっとこう…

「それ、いいね!」「頑張れ!」「楽しみ!」

みたいな、明るい気持ちになる言葉を贈りたいんですよね。

気をつけているつもりでも、軽い否定のニュアンスが入ってしまっている気がします。

でも、意識していて気がつきました。

素直に「いいね!」って出てこないことや、否定的になりがちなことは、「自分の知らないこと・わからないこと」なんです。

私は文化部しか経験がなく、運動部のことはよくわからないから。

自分が子どもの頃には、ネットもゲームも身近ではなく、年齢に応じたつきあい方を知らないから。

新しいSNSのツールは、使ったことがなくてわからないから。

「知らない、わからない」だから「不安、恐れ」だから「否定的」。

「おもしろそう、やってみよう」より、警戒心が先立ってしまうんですね。

両親も、こんな気持ちだったのでしょうか。

少しだけ理解できると同時に、それでもやっぱり、ちゃんと向き合って寄り添っていきたいです。

大人がもっともらしく理由をつけて言葉にするから、否定的でも教育の体裁になっているけれど。

これって、小さい子のイヤイヤ! とか何で何で? と同じようなものだと思うから。

違いは、「未知への恐怖」になるか、「未知への興味」になるかだけ。

ならばせめて、知ろうとする努力だけは、怠らないでおこうと決めました。

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