心の傷をふり返ってみる

いつだったか、心屋仁之助さんの本を読んでいたときに、こんな一節がありました。

心のキズの主成分は、「思い込み」と「勘違い」。
それに気づいたなら、笑うしかない。

「ああ~…」って、妙に腑に落ちてしまった私。

今まで生きてきて、つらかったことや悲しかったことは、確かにありました。

で、傷になっているものというのは、自分にとっては、消化しきれていない出来事なんですよね。

こんなことがあったから苦しくてつらかった、私かわいそう、でも今頑張っています。

という表現のために、ずっと残していた傷跡だったわけです。

でも、それって何だか、すごくかっこ悪いし、楽しくないんです。

その当時を思い返しても、かわいそうな自分に酔うぐらいしかできることがない傷跡なんて。

――例えば、私の腕には、実際の傷跡も残っています。

妊娠中に、早産から赤ちゃんを守るために、数ヶ月間絶対安静で入院し、カテーテルを入れていた跡。

その小さな痣は消えませんが、普段はそんなものがあることすら忘れているし、ふと目に入ると、自分も子どもたちのことも愛しく感じられて。

あったかい気持ちになる傷は、私には、もはや傷ではないんですよね。

対して、私が心の傷としていたものは、見つめたとき、他人への愛情や感謝は生まれてこないものでした。

こんなの、後生大事に抱えていても、仕方がない。

そろそろ手放そう、と思いました。

つらかったこと

改めて見つめれば、それなりに出てきます。

親子関係。友達関係。恋愛関係。家族関係。

まだ幼い、子どもの頃。感受性が強かった、思春期の10代。

大人になったようでなっていなかった、自分がいつだって正しいと思っていた若い頃。

小さな棘のように刺さっていたものもあれば、二度とこぼれ落ちないように、厳重に塞いでいたものも。

当時は確かにつらかったけれど、そこから「思い込み」と「勘違い」を引いたら、驚くほど何も残りませんでした(笑)。

「あ、そんなこともあったね。大変だったね。でもまあ、今が幸せで、よかったね」

その程度のものです。

抱え込んでいた荷物が、またひとつ、軽くなったような感じ。

「苦しみや悲しみを糧にできた」って、こんな気分のことをいうのでしょうか。

さて、これからまた、楽しくなりそうです。

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