私にとっての「応援する」ということ

今日は、自己理解によって、自身の立ち位置に納得したお話です。

【私にとっての「応援する」ということ】

ひと口に「応援する」といっても、その形や方法は、人によって違います。

“物事の成功を一緒に目指したい”とか、“結果に関わらずその人自身の成長を見たい”とか、いろんな形があって。

併走して叱咤激励する人もいれば、先々までを見て危険予測をすることで成功に導く人もいますし。

後ろから見守る人も、雑務を引き受けて丁寧に環境を整える人も…多様な役回りは、挙げればきりがなく。

私の場合はというと、その“もの”を、とかプロジェクトを、というよりは、

その“人”を応援したい、と思うことが多いです。

応援しようと決めたら、相手を最大限まるっと受け入れたいし、できる限り相手が望む形で応援したい。

人としての道に外れず、生命の危機でない限りは、試行錯誤・七転び八起きを見守りたい。

その人が、誰かと檄を飛ばし合ったり、支え合ったりしながら、ともに進むのを後ろから見守っていて、

喜びを分かち合いたいときや、苦しくて前を向けないときは、そっと声援を送りたい。

もしも疲れたときは、ちょっとだけ後ろをふり返って、休んだらいいよ。

今やっていることが、うまくいってもいかなくても、最終的にあなたが納得していて、あなたが幸せならいいよ。

というような。

これ、子どもに対するときと、同じ感覚なんですよね。

だから、子育てのような“ひとりひとりを育む”世界には向くのかもしれないけれど、

「絶対にこのプロジェクトを成功させたい!」みたいな、ビジネスパートナーとしては不向きなんだろうな、と。

身近な家族に対しても、推したい人に対しても、どうするのがいちばんいい形の「応援」なんだろうなあ…

って、最近ちょっと考えていたのですが。

そもそも、私が私じゃない形で、誰かを応援したり、社会に関わったりできるわけじゃないので、

今こうして応援したいと思うのなら、この“後ろから見つめる”位置が、今の私の役割だと決めることにしました。

応援も子育ても、自分ひとりでできるものではなく、たくさんの人の力が合わさってできるもの。

だったら適材適所で、そのときに向いている人が向いているポジションで、やっていったらいいのだろう。

自分が立つ場所を、そんなふうに結論づけたんですね。

で、昨日載せた数秘術鑑定を、改めて読み返したら、思考がなぞられておりましたw

#信仰は人一倍とか

#相手が欲している応援は活力か武力かとか

#メンタル弱弱の英雄候補ってまさに子ども

#方向性としては合ってる

何をするにしても、納得して進めるのが、自己理解の素晴らしさだなと思いました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする