自然に湧いてきた感情が、子どもの頃の劣等感と結びついていることに気がついて。
まだ後生大事に抱えてたのか!
もう切り離そう! と思いました。
【劣等感と、笑ってバイバイしたいと思う】
私、劣等感の塊だなー! って思った出来事が、最近3つありまして。
1つ目は、前にお話しした、小学校の参観日のこと。
真実、素敵な授業だったのですが、
自分の作った詩を、クラス全員が読む。というところで、私は、
「自分の中身を、クラス全員に晒すなんて、苦痛でしかないな…」
と、思ったんですよね。
#嘲笑される前提で考えてる
#なんでだw
2つ目も、同じく参観日に見学した、全校生徒参加の、大縄跳びで。
自分が、大縄が苦手だったので、
「飛べない子にしたら、公開処刑みたいなものなんだよなあ…」
という感想を、最初に抱いたんですよね。
#飛べないと怒られる前提
#できなくても楽しい可能性を考えられてない
3つ目は、休日に、子どもたちと家で一日、過ごしていたとき。
義母から「今日は一度も外に出てないの!?」と言われて、
子どもを連れて出かけなかった自分を、正当化する理由を、いま頭の中で探している、って気がついた瞬間。
#義母に他意と悪意はない
#そのときに頭に浮かんだのは
#子どもは外で元気に遊びなさい
#と言われ続けた昔の自分
で、私は劣等感の塊だな、と思ったんですよ!
いちいち悪い方を想像して、選ぼうとするところが、優しくないw
子どもの頃の私が怖かったのは、失望のため息と、好奇の嘲笑。
みんなと同じようにできない者と、自分には理解できない者を、
無邪気に無遠慮に、拒絶して、隔ててゆく視線。
それは私の中にもあるものなのに、自分に向けられたと感じた途端、動けなくなる。
“いたたまれなさ”と“居場所のなさ”が、嫌でしかたがなかった。
で、何気ない風景や言葉の端々から、わざわざその記憶を拾い上げてきて、現在の現実に、繋げようとしている。
自分の経験を、たとえば誰かに寄り添うときに、
「こういう感じ方もあるよね」と、選択肢のひとつとして使えるのは、いいと思うのだけれど。
あまりにナチュラルに、自分の現在に紐づけていたので、
「いや、それは要らんでしょ!」と、笑っちゃいましたw
子どもだった私を守ってくれた劣等感、ありがとう。
お互い、自由になりましょう。