初めて経験することは、大変さがわからない。
明らかに知識と技術が及ばない専門分野ならば、話は別なのだけれども。
この春、義理の祖母が入院した。
認知症の急な進行が理由だ。
体は年齢のわりに元気だったので、外での義祖母を知る人たちからは、
「認知症だったのね。それは大変だったでしょう」と、労いの声をかけられる。
私はそのたびに、まごついてしまう。
まあ、いえ、はい…。
言葉を曖昧に、空気にのせて会話している。
まったく大変でなかった、とは言わないが、
胸を張って大変だった、と言えるほどでもないような気もしている。
私には今まで、直接的な介護の経験がなかった。
初歩を学んだ介護も、身体的な介護技術が主で、
それに比べたら、精神的な介護の割合が高かったわが家は、楽なのかもしれないと思っていた。
けれども。
一旦手を離れてみて、初めて、私は疲れていたのだと自覚できたのである。
自分で感じていたよりも、ずっと。
子どもから指摘されるほどに。
人と比べてどうか、ではなく、私にとっての負担感の、主観の話だ。
育児や家事や仕事は、経験を重ねるごとに、何とはなしに“大変さ”を量れるようになった。
過去の主観と、比べることができるから。
経験のないことは、大変さの物差しがない。
人の表面に見える“大変そう”は、予測でしかなく、実感を伴う物差しにはならない。
いまだ私は、「大変だったでしょう」とささやかれても、
うまく言葉にならない返事を、もごもごと呟いている。
ただ、自覚がなかったとしても、自分を労ることの大切さは、身をもって理解したのである。