【noteエッセイ】本好きの哀愁

本を読むのが好きだ。

読書友だちと、「年老いて不自由になりたくないのは、目か耳か」という会話になったときは、本を読むために即断で「目!」と答えた。

友だちも同じだったので、ふたりで笑った。

読み上げた書籍を耳から入れる方法もあるけれど、やはり自分のペースで文字を追いたいのである。

本の手触りや厚み、重さも感じながら、丁寧にページをめくりたい。

もしも将来、認知症になったら、読んだことを忘れて、何度でも同じ本で感動できる、お得な老後を過ごしたい。

いやしかし、つまらない本をくり返し読んでは「つまらなかった」と思うのは避けたい。

娘に、もしも私が認知症になった暁には、おもしろいと言った本だけを周りに置いてほしい、と頼んでおいた。

そんなにも老後の楽しみに読書を据えているというのに、最近、小さな文字に焦点が合わなくなった。

今までなら近づければ見えていたものが、遠からず近からずの絶妙な点を探らなければ、文字として認識できない。

大変な衝撃である。これが老眼か。

体力も落ちてきた。ずっと同じ姿勢で、本を読み続けることができない。

昔は一日じゅう本屋さんで立ち読みをしたり、ふとんにくるまって物語に没頭したりしていたのに。

腕が、首が、肩が、腰が。全身が根性を失い、悲鳴を上げるようになってきている。

さらに脳も衰えてきた。

言葉を理解できないという類の衰えではない。集中力と切り替え力の低下である。

本の世界と現実世界の行き来に、かなりの気力が必要なのだ。

本を閉じたり開いたりするときに、これまではスリープ状態を保てたのに、今はいちいちシャットダウンから再起動しなければならないような重さがある。

そのせいか、気軽に長編小説を開けなくなってきている。

心はこんなにも本が読みたいのに、体がついていかなくなる。

本好きの哀愁を持て余しながら、それでも私は、今日も本を手に取るのである。

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