私の掃除ルーティンは、朝。
田舎に住んでいるので、まずはひととおりの掃除をしておかないと、すぐに虫が侵入してくるのだ。
虫嫌いを超えて、虫恐怖症の私にとっては、死活問題である。
また、そこから1日家仕事をするにも、趣味にいそしむにも、綺麗になった家のほうが気分が上がるのは確か。
そんなわけで、毎食後にはテーブルと床を綺麗にする。
朝に掃除したはずの床の、食べこぼしや勉強の跡を夜に再び拭いていると、シンデレラのような気分になってくる。
なぜ私ばかりが床を拭いているのだろう。
いや、子どもたちも机回りは片づけてくれている。
床まではなかなか気が回らないらしいが、それでも目につけば屑は拾ってくれている。
それ以上は「もう少し片づけずにいられない」自分の心のこだわりから生じる問題であるからして、私がやる気を出すしかあるまい。
夜の貴重な自分時間を、お菓子とごはんと消しゴムの屑の中で過ごしたくないのは、他でもない私自身なのだ。
「片づける」という責務を果たしている相手に対して、行き届かなさをいちいち怒るのは、自己中心的で思いやりに欠ける行動であるからして。
綺麗にしても綺麗にしても、汚れてゆく悲しみ。でも生きるとはそういうことなのだ。
と哲学的につぶやきながら、自らのやる気を引っ張り出していたら、娘が「確かに否定はしないわ」とつぶやき返してきた。
思わぬところから返答がきて、聞いていたんかい! という驚きと、
ならば手伝ってはくれまいか! という愚痴とが、私の脳内でせめぎ合った。
だがしかし、こだわりのポイントや度合いは、人それぞれ。片づけもまた然りである。
母は笑顔の下にすべてを収め、今夜もしばし、舞踏会に出かけたシンデレラのように、眠るまでの自分時間を満喫するのだ。
魔法使いが来なくても、自分で自分を楽しませてあげることはできるから。