【noteエッセイ】言葉のやさしさは、子どもが教えてくれた

もう、ずいぶん昔のことになります。

子どもが、学校に行けなくなった日。
それまで快活だった子が、しゃべらなくなり、笑わなくなりました。
話しかけても、わずかに目を動かすだけ。

同年代の子よりも語彙が豊富で、言葉でのコミュニケーションがとりやすい子だったのだけれど、
まるで言葉の通じない相手になったようでした。

暴れたり叫んだりするわけじゃないのです。
ただ、何を言っても、ほとんど反応がありません。

反応がない子どもに、私は伝え続けていました。
労りや心配の気持ち、一般的な主義主張、向き合って得た気づき、他愛のない雑談…
いろんなことを話し続けました。

「伝え続ければ、伝わる」と、思っていたんです。
自分の気持ちや考えを、丁寧に言葉にすれば、相手にもきっと届く。
そう信じていたし、そうあってほしいと願っていました。
でも、学校に行けなくなった子供と向き合う時間は、それとはまったく別次元の場所だったのです。

学校に行けない理由がわからない。
問いかけても、答えが返ってこない。
今、目の前にいる子どもが、何を感じているのかすらわかりません。
言葉ではたどり着けない感情に、何度も何度も、とまどいました。

やがて私は、言葉の手前にあるものを、見つめるようになりました。
まなざしの先、わずかに動く表情。
長い沈黙、震えるように小さなしぐさ。

「どうして伝わらないんだろう」という焦りとも、何度も向き合うことになりました。
この子のことを、なんとか理解したいと思いました。

そうして、気がついたのです。
私の「伝えたい」は、「私の言葉で、相手を変えたい」だったことに。
私の「わかりたい」は、「私の知る言葉に、相手を収めたい」だったことに。
なんて身勝手な、言葉の使い方だったのか。

人は人、自分は自分。
そのあいだに橋をかけるのが、言葉だとしても。
無理に渡らせるものではなくて、
ただ「ここにあるよ」と、示すだけでよかったんです。
その言葉のコミュニケーションを受け取るかどうかは、相手の自由だから。

何も答えがなくてもいい。わからないことは、わからないままでもいい。
私の言葉のルールを、子どもが受け入れなければならないなんて、決まりはありません。
逆もまた同じ。

子どもと過ごす日々の中で、私は、
「伝えるための言葉」よりも、「ともにいるための言葉」を選ぶようになりました。
違いを認めるための強さという、やさしさを教えてもらいました。

子どもが「私とはちがう存在」であることを、自然に受け入れられたとき。
豊かな語彙と表情を取り戻した子どもは、前よりもずっと、言葉で語り合える相手になったのです。

あの頃の感覚は、私の文章に、静かに息づいています。
押しつけていないか。閉じていないか。
感覚を研ぎすませて、確かめています。

子どもと向き合うように。
言葉とも、読んでくれる人とも、まっすぐに向き合うために。

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