進学とか結婚とか、そういう人生の節目のような、
物理的にも精神的にも、子どもが親の手を離れていくときの話。
わたしは子どもの立場で、親とは意見があわなくて、
「とにかく話し合いましょう」
と言われたときのこと。
このときの「話し合い」って、
お互いの主張を理解して、落としどころを決めましょう、ではなく。
どちらもが、お互いを説得して、自分の主張を通そうとしていた。
…ということを、社会人生活を経て、
子どもでいた期間より、親でいる期間のほうが長くなって、
ようやっと気がついたんですよねえ。
あのころ、親というのは、わたしにとって完璧な存在だった。
自分はそうはなれないと思っていた。
歳を経るごとに、当時の親心に、思いを馳せられるようになってきた。
子どもだったわたしの、視野の狭さも痛感してきた。
家族特有のねじれが見えて、家族特有の愛情も見えてきた。
想像できることと、理解することと、受け入れることは、まったく別で、
しいて言うなら「消化」に近い感情なのかもしれなかった。
話し合いという名の、永遠にも感じられるような、互いに消耗するしかない時間のあとに、
普段まったく出来合いのものを食べなかった母が、あの衣食住に厳しかった母が、
「ちょっとお腹が空いちゃった。これでも食べましょう」
と言って、カップラーメンを出してきたときは、驚いたものだ。
そのとき話し合っていた物事は、なんら解決はしなかったのだけれど。
家族全員で、夜中にカップラーメンをすすったことなんかは、
くゆる湯気のあたたかさまで、不思議と鮮明に覚えている。
さて、わが子たちは、
大人になってから、家族にどんな形を見るのだろうか。
