タイトルが穏やかならず。
でも、コロナ禍の中での支援ということで、興味が湧きました。
読んでみて、まずびっくりだったのが、うちの子どもたちは「不登校」には含まれないこと。
文部科学省の定義は、
病気や経済的理由を除き、年度間に連続又は断続して30日以上欠席した児童生徒(小・中学校)
なのだそうです。
確かに引きこもってはいないし、学校にまったく行けていないわけではないけれど…。
適応指導教室や放課後等デイサービス、医療サポートをフルに使い、学校は「玄関までは行く」というルールで折り合いをつけて。
毎日電話連絡を入れては、付き添いや送り迎えをしながら、はたまた一緒に外出しながら、調子のいいときも悪いときもくり返しながら。
毎日毎日声をかけ続けて…、嘆く気はありませんが、負担がまったくないとは言えません。
何より、子どもたち自身も「行きたくない」の言葉の裏には、大きな葛藤を抱えているでしょう。
それでも、不登校には当たらないんだなあ、と。
こういうグレーゾーンまで含めたら、いったいどれだけの親子が日々を戦っているのかと、切なくなりました。
我が家の場合は、「学校に行けない」を受け入れることはできたものの、将来に繋がる具体的な支援となると、まだ道筋が立っていません。
いろんなところからサポートを受けながら、親として、まず「子どもを信じる」ことを前提に、
- 引きこもらない(家族以外の社会との繋がりを断たない)
- 昼夜逆転はしない
最低限これだけは守ってもらいながら、寄り添ったりぶつかったりしています。
本書を読む限り、今の段階の我が子たちにこの2つをお願いしたのは、間違っていなかったのではないかと感じました。
実際の支援の例を知ると、将来のイメージもしやすくなりますし、一度立ち直ったからおしまいではなく、長期的なサポートが必要なこともわかります。
また、コロナショックが吉となった子、凶となった子、両方の事例が紹介されていましたが。
立ち直りかけて、コロナショックで折れてしまう気持ちも、他人ごとではありません。
コロナ関連で自宅待機のために学校を休むことになった日、
「今日は無理に送り出さなくてもいいんだ」「家で堂々と、ゆっくり過ごせるんだ」
と、支援する側の私自身が、びっくりするぐらい深い安堵感を覚えたのです。
普段はそうと感じていなくても、やっぱり私も、よく踏ん張っていたんだなあ…。
待機明けの登校日は、子どもと同じように気が重かったです。
自分を律して奮い立たせたけれど、私が子どもの立場なら、動けなかったかもしれません。
子どもたちの日々の頑張りに敬意を表しながら、引き続きサポートしていきたいと思います。