凍りのくじら(辻村深月)

処方本でも紹介されていた「凍りのくじら」、長女のお友達に貸してもらいました!

理帆子は、今まで読んだ辻村深月作品の10代の主人公とは、ちょっと違います。

「うんうん、わかる! そうだよね!」という、全身で共感する子ではなくて。

「危ういな…大丈夫かな?」と、苦虫を噛みつぶすような気持ちで、気にしてしまう子です。

理帆子はたくさん本を読んでいて、頭がいい。

人間関係の表面処理に優れていて、それゆえに周りを見下してしまっていて、素直に世界に溶け込めない。

希薄な現実をゆらゆらと漂っている感じがして、歳を食った私は、それじゃあ危ない。と言いたくなる。

けれど、愛情たっぷりに、包み込むように見守ることはできなくて、苦々しく背中を見つめているだけ。

その苦さは、10代の自分も理帆子と同じようなことを、理帆子より低いレベルでしていたな、と自覚しているからで。

本を読まない子や夢を持たない子を見下して、現実は小説や漫画みたいに、自分が世界を動かせると信じて疑わず。

今となっては思い上がりでしかない人間関係を、たくさん作って壊してきたな、と思います。

でも、だからこそ、理帆子がドラえもんを語るときの素の姿が微笑ましかったし。

いつも“少し・不在”で、

「私はくだらない。計算して言葉を組み立てて、相手を悪く言って、その場所や感情に縋らないふりをして、だけどこうなってからいつだって後悔する」理帆子が、

私は一人が怖い。誰かと生きていきたい。必要とされたいし、必要としたい。

(中略)

私は郁也が好きだ。

美也が、カオリが。学校の友達が、両親が。松永のことも、若尾のことだって、好きだった。最初からずっと、そうだった。

こみ上げる嗚咽とともに、そう自覚したときには、深く安堵しました。

理帆子が現実世界に、しっかりと足をつけて立ち上がったのが見えたから。

ああ、よかった。私の中にいた理帆子も、ちゃんと大人になって生きている。

長い長い旅を終えたような読後感に包まれて、静かに本を閉じました。

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