“嫌い”に鍛えられたこと

日ごろ「家事が嫌いー! 苦手ー!」と唸っている私ですが、すべてができないわけではなく。

家事の中でも、その度合いはバラバラです。

【“嫌い”に鍛えられたこと】

たとえば、室内の掃除や整理整頓、ご近所さんとの交流なんかは、わりといける。

料理や洗濯や家計管理は好きじゃない。

アイロンと裁縫と草むしりは、可能な限りやりたくない!

というふうに。

ずっと、それは単なる好みの問題だと思っていたのだけれど、よくよく考えたら、別にどれも「好き!」ではないんですよね。

#中では好きかなぐらい

好き嫌いというよりは、習慣になっている家事はやりやすく、習慣づいていない家事はやりにくい。な感じがしたのです。

で、なんで好きではないことが習慣になったのか?

と考えると、ある意味“生存本能”だな、と。

私がいちばん習慣になっている家事は、掃除なのですが、昔から綺麗好き…というわけでもありません。

ただ“汚れている”という状態の、手ざわりやニオイが苦手で、苦痛なんです。

#排水口とか桟とか

#ドロッザラッヌメッが苦痛

好きな人はあんまりいないと思いますが、感覚過敏のせいか、気持ちがどっと疲れてしまう。

#一度触れるとなかなか感覚が消えない

#悪霊がまとわりついてるみたいになる

そうなる前に予防しようとして、掃除が習慣づいたのではないか、と思います。

だから私、掃除機もできれば使いたくないんです…。

“掃除機のフィルターやヘッドを掃除する”という家事が、私にはとてもしんどい!

#汚れをためた汚れをとる

#二重作業

料理や洗濯は、やらなかった結果の精神的苦痛が、そこまで酷くはないので、なかなか身につかないのかもしれません。

だとすると、やむにやまれぬ・のっぴきならない・背に腹は代えられぬ、という状況は、

本人にとってはしんどいけれど、そのおかげで、掃除する習慣はきっちり身についた。

楽しいかどうかは別にしても、そういうスキルの鍛えられ方も、確かにあるんだよなあ…。

しかし、昨日の「怖いもの」にしても、今日の「苦手」にしても、

今の世の中で生きるにしては、それなりにハードル高めの体を選んで、生まれてきたようでw

子どもに対しては、得意を伸ばす方向の重心を多めに、働きかけておりますが。

私が地球暮らしを楽しむには、ある程度の苦手の底上げは、やっぱり必要だな!

我ながら世話が焼けるけれど、それもご愛嬌。

今朝は、掃除をしながら、そんなことを考えておりました。

すっかり習慣づいたので、手を半自動で動かしながら、あれこれと思考を深める時間にもなっています。

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