「書く」ことについて考える

note投稿を始めてすぐの頃、私にとっての「詩」と「エッセイ」の違いについて記したことがあります。

【「書く」ことについて考える】

そのときは、

“エッセイは、核となる部分を効果的に演出するために、ひたすら肉付けしてゆく”

“詩は逆で、極限までシンプルに削ぎ落として、研ぎ澄ませてゆく”

“同じ「言葉を綴る」ことでありながら、似て非なるのがおもしろい”

“どちらも私の中にあったものなのに、外に出すと真逆の形になっているのが不思議”

というふうに捉えていました。

最近、また別の角度からの違いが見えてきて、さらにおもしろいなあと思っています。

詩を書くときは、音や情景が入口になることが多いんです。

耳や目で捉えて、それが内側の感情をどう揺らしたか。

揺らぎがよく見えるように、不要な音や情景を消して、フォーカスしていく感覚です。

エッセイは、五感ではなく、心の扉が入口です。

心の奥まで、深く深く潜っていって、何を感じているのかを知り。

そのフィルターを通して見た外の世界を、文字にしていく感覚です。

詩が「外側から見た内側」、エッセイが「内側からみた外側」のような違いを感じます。

一方が欠けると、もう一方もうまく出てこなくなるような気がするのは、今でも変わりません。

この日記はというと、言葉を使う量としてはエッセイ寄りなのですが、視点が少し違っていて。

内側でも外側でもない場所で、自分のパーツを並べて、眺めている感覚がするんです。

出来事や気持ちを、いちばんそのままに書くものなのに、実際に書く文章も一人称なのに、

中身を捉える視点はいちばん客観的である。というのが、不思議だなあと思います。

同じ「書く」でも、それぞれにちょっとずつ使っている感覚が違うので、

どれかが欠けると、五感の一部をなくしたみたいにおかしな気がするし、

今の私にはどれも必要な感覚だから、書いているんだろうな。

私にとって「書く」ことは、何かを伝えたいと同時に、自分を理解することでもあります。

世界で何が起こっても、自分の中にあるものを通してしか書けないから、

自分のことがわからないと、きっと私、なんにも書けないなあって思いました。

「書く」、めちゃくちゃおもしろいです!

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