理想の自分でいる

「理想の私」って、何だろうな。

ふと、そんなことを考えました。

【理想の自分でいる】

昔は、目指す場所や、目標という意味合いで、よく使っていた言葉です。

未来に向かう言葉。

理想を持たなくなったら、人間としての進化が止まる、と思っていた。

今は、逆の流れで見つめていることが多いかも。

いつかどこかで心に描いた物事が、はたしてどうなったか。

ここにいる自分は、いつかどこかで、望んだ姿ではなかったか。

人生の、確認作業のような。答え合わせのような。

ここでいったん照らし合わせて、再び向かう場所を定める時期なんだろうか。

「理想」の意味を調べると、解説によく用いられている単語が、“完全”や“最善”です。

“完全”の感覚は、あまりしっくりきません。

ある時点での完全は、自分が成長すれば、不完全になるし、

自分の寿命が尽きた後も、人の記憶の中で、私の姿は変わり続けるから、

目指す“完全”な状態って、よくわからない。

“最善”のほうが、なじむ表現です。

「理想」を、その瞬間の最善、と考えるなら。

そのままで理想の幸せ、でもいい。

努力して理想を目指す、でもいい。

今の私は、どちらでもいい。

ただ、「理想」という言葉を、今の自分に対する言い訳にすることや、

人を責めたり、自分を責めたりする理由にすることは、嫌だなあ。

“自分に言い訳しなくていい道を、選び続ける私”

それが、理想の自分、なのかもしれない。

だとしたら「理想の私」には、なると決めたら、いつからでもなれる。

今この瞬間、言い訳しない道を選べばいいだけだから。

「理想の私になる」ために頑張る、じゃなくて。

「理想の私でいる」状態を選ぶ、が好きなんだなあ。

と、思ったのでした。

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