「読む」とは、自由そのものです。
書くことに、唯一絶対の正解がないように、
読むことにも、たったひとつの正しい読み方は、ありません。
ただし、同じ文章を読んでいても、
「どう読むか」で、受けとるものは変わる。と思っています。
私の土台になっているのは、
「ある前提で読む。ない前提で読まない。」
なのです。
「ない前提」で読むとは、自分の理解できる解釈だけで、言葉を受けとること。
理解しがたいもの、好みに合わないものを「ない」としてしまうことです。
この人の文章、ちっともおもしろくないな。
なんでこんな書き方をするんだろう?
もっとはっきり、わかるように書けばいいのに。
そんなふうに思いながら読むことです。
批評家でない私にとっては、欠けている部分を探す読み方になります。
だから、相手が自分の意に沿うのかどうか試すような、
否定的な目線になっちゃうんですね。
「ある前提」で読むとは、そのまま素直に、言葉を受けとること。
私の受けとり方がどうあれ、この文章は、すでにこの世に存在しているのだから。
と、考えます。
すると、
この表現には、きっとこの人ならではの理由があるんだろうな。
私にはわからないけど、この言葉の魅力がわかる人がいるんだな。
いまの私には必要ないけど、ここにあるのは尊い言葉だ。
って、文章の存在を否定することなく読めるのです。
すでにあるものを見つけようとする読み方、とも言えますね。
相手の世界に、そっと耳をすませるように、読む。
私は、読むのが好きだけれど、何でも好きなわけじゃない。
読んで、満たされた気持ちになるのが好きなんです。
ときめいたり、世界がやさしくなったり、
新しい発見に心躍らせたり、存分に涙を流したり。
読み終えたとき、
いまの私が、この文章から味わえる感情を、気持ちよく味わいきった!
そう感じる瞬間が好き。
だから、どうにもときめかない言葉や、苦しくなってしまう表現に出会ったときは、無理に読み込みません。
「あ、これはいまの私には合わないな」って、そっと視線を外します。
あえて焦点をずらして、視界をぼやけさせるみたいに、
気持ちを少しだけ、遠くに置く感じ。
誰かの言葉を否定して、自分の存在を確かめるためではなく、
とにかく、自分をごきげんにするために読む。
そのほうが、読むのが楽しいから!
読むということは、書き手の言葉を受けとるだけじゃなく、
そこに、私の受けとった感覚が加わって、
はじめてひとつの文章を完成させる行動なんです。
読むことは、書き手との対話でもあり、
自分を鏡に映すことでもあり、
ともにひとつの文章を作り上げることでもある。
だから、いつも「ある前提」で、
今日の私は、何を感じるのかな? とわくわくしながら、
言葉を受けとり続けたいのです。
