冷静であること

以前、エゴグラムをしてもらったときに、

「冷静に判断できる人だと思います」

と言われました。

意外な言葉でした。

だって私は、昔から、

「すぐ泣くし、よく感情的だって言われるんですが…」

実家の家族からも、過去の友人や恋人からも、旦那さんからも、そんな評価だったと自覚しています。

論理立てて話すのが得意ではなく、感情が溢れてすぐに泣いたり、思い込んで突っ走ったりする。

ふり返ってみても、思慮深さとは無縁の人間関係だったような気がします。

けれども、どうやらそうでもないらしい。

「感情を表にどんなふうに表すかは、また別です。周りやご自身をよく見て、落ち着いて判断しておられます」

10代20代の頃はともかく、30代後半にさしかかったあたりからは、言われてみればそうかもしれないな…と。

自分がこれでよしと信じて生きてきた物事が崩れた分、他人の目を気にする性質も相まって、確かに昔よりは、周りを見聞きして判断するようになったのかもしれません。

同時に、娘のおかげで、内省の時間も十分にもらえたので、自分のことをきちんと見つめる力もついてきたのでしょうか。

とは言っても、自分と冷静さとは、あまり噛み合わないように感じながら、過ごしていました。

私と旦那さんを比べてみる

娘の進学や支援にまつわることで、この半年ほど、いろいろと動いていました。

私はどの情報や意見に対しても、「ああ、そう」という受け取り方で、その中から娘にとって幸せであるものを選ぼうと思っていて。

学校生活や進路のことも、「娘が自分で楽しく、幸せに過ごせればいい」と答えるたびに、カウンセラーさんから、「お母さんは、最初からそれで一貫してますね」と言われていました。

旦那さんは、努めて冷静でいようとするのだけれど、自身の感情的に受け入れられない事柄もあったようです。

持ち前の論理的性質で、筋道立って納得できれば、以後はまったく気にしないのが、らしいところですが(笑)。

また、先日の長女の卒業式のとき。

私はみんなの愛情をひしひしと感じながら、目を潤ませて、けれど娘の姿をしっかりと記憶に焼きつけるように見守っていました。

一方で、普段は感情を表に出さない旦那さんが、このときばかりは、堪えきれずに号泣。

子どもに涙は見せたくないスタンスらしく、必死で立て直していましたが…。

それを見ながら、わかりにくいだけで、子どもへの愛情は深いんだなあ、と考えていました。

感動しながらも、それでいっぱいになるわけではなく、頭の別の部分では、いろいろ思考している。

こうして比べてみたら、確かに私は、ある意味で冷静なのかもしれない、と思わされたのでした。

「冷静」とは

人間関係においては、いい意味でも、悪い意味でも使われます。

経験上では、ビジネスではいい意味合いの方が、恋愛では悪い意味合いの方が多かったかな。

では、今の私がどんなふうに人と関わっているかというと。

相手と自分とのコミュニケーションのキャッチボールを、3往復分ぐらい考えてから動いたり。

決められた時間内で、どれだけのことを伝えられるか、答えを引き出せるか、きちんと整理してシミュレーションしてから話したりすることが多いです。

ただ、緊張や想定外の動揺によって、それを実際の場にはできないことも、ままあります。

そこでおろおろしているのは、冷静とは無縁にも思えます。

けれど、じゃあどうするかという判断をするときには、自分と相手の気持ち・立場・状況・利益不利益などに、思いを巡らせてから決めます。

相手にうまく伝えられなくて、ただ涙することになっても、私の中には、確固たる根拠があるのです。

突き詰めて考えていくと、「冷静さ」というのは、

①自分のことを理解している

②周りを観察したり、物事を俯瞰で見たりすることができる

③それらの情報と、知識や経験をもとに、「こうしたらどうなるか」を想像できる

④自分にも周りにも、現在にも未来にも心を配りながら動ける

という要素で構成されています。

決して、無感動や非情ではなく、さまざまな物事に心を動かされた上で、自分の責任でしっかり判断すること。

それは、心の穏やかさに繋がるものです。

私にとっての冷静さは、穏やかな人生への道のひとつなんですね。

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