「幸せだけを見る」ことは、明るく前向きな生き方なのでしょうか。
それとも、嫌なものや苦しいことから逃げている生き方なのでしょうか。
私は今、ニュースをほとんど見ません。
ときどき新聞を読んだり、NHKの無機質なニュースを聞くともなく聞いたり、ほんわかしたローカル放送を見たりはしますが。
事件とか事故とか、バッシングとか、精神的につらいものは見たくないんです。
ワイドショーや衝撃映像特集の類いは、見ているだけでどっと疲れてしまいます。
穏やかな気持ちを、かき乱されるのが苦手です。
辛酸を舐めていない人間だから、そんなふうに思うのかもしれません。
けれど、昔は作家志望の人間でしたから、現実から目をそらしてはいけないと頑張った時期もありました。
世の中からは戦争も犯罪も事故も、理不尽な不幸はなくならない。
人間を描く仕事をしたいなら、つらく苦しい部分もしっかり見つめなければ…と考えていました。
いじめの手記や、犯罪被害者の体験談、人間の闇を描いた創作物も読んでみたのですが。
これがもう、見れば見るほどつらくなるんです。
どうやら私は、客観的に受け止めるのが苦手で、感情移入してばかりのようで。
もう二十歳を越えていましたが、読んだあと怖くてたまらなくなり、ひとりで外出できなくなるようなことも、しばしばありました。
長女を生んだ直後などは、母子殺人事件のニュースが世間で騒がれていて。
産後の不安定さも相まって、想像するだけで気が狂いそうで…不幸に見舞われなかった自身を必死でなだめて、でも被害者の心情を慮れない自分はすごく身勝手な人間に思えて。
情報を見せられているだけなのに、不幸の無限連鎖に陥っていたこともあります。
そして、自分の限界を感じました。
これ以上、つらく苦しいことや悲しいことに触れたら、実生活に支障が出てしまう。
目の前の我が子を、守れなくなってしまう。
だからもう、それらはシャットアウトしよう。
自分に不幸が降りかかってきたときは、きちんと向き合うし、考えるけれど。
そうでないときは、幸せなことだけを見つめていよう。
そのスタンスのまま、今まで過ごしてきました。
昔は、文章を書くからには、すべての人に届き、認め、受け入れてもらえるようなものにすべきだと信じていました。
だからこそ、目を背けずにすべてを描こうとしていた。
今は、それは驕りだったと思っています。
私にもおもしろいものとそうでないものがあるように、誰にでも感じ方を選ぶ権利があるのだから。
みんなに受け入れてもらいたいなんて、世界中の人から愛されたいと願うようなものだな、と。
私は、今いる小さな日常の幸せを何より優先していて、世界で起きている戦争や犯罪からは目をそらして生きている、自分本位な人間だけれど。
嫌なもの、つらいことはあえて見ようとはしていない、弱くてちっぽけな人間だけれど。
昔だったら、ありえない生き方だけれど…。
全部ひっくるめて、幸せだけ見ている今の自分も、受け入れつつあります。
感度の高い自分も好きだけれど、それを苦しむことに使わないように。
半径3メートルの幸せを、まずは目指して。
自分と周りとの境界線を見失わないようにしながら、できることをしていこう、と思っています。