正しさが、ときに人を傷つけることがある。
私がそのことを何となく理解し始めたのは、30代になってからでした。
ある意味では、処世術として正しさを口に出せない自分への、慰めでもあったのかもしれませんが。
実体験として感じたのは、最近になってからです。
学校に行きづらい長女は、朝から調子よく教室に行ける日もあれば、相談室や保健室でしか過ごせない日もあります。
登校はしてみたものの、玄関をくぐることすらできずに、そのまま帰る日も。
そんな学校生活でも、昨年までは、割とフラットに声をかける友達が多かったように思うのですが。
今年になってからは、タイプが分かれてきたなあ、と感じています。
1つ目は、学校になじめない娘を、あまり良く思わないか、関心を持たないタイプ。
2つ目は、積極的に声をかけには来ないけれど、長女を好きでいてくれているんだな、と伝わってくる距離感を保ってくれるタイプ。
そして3つ目が、正しく明るく、必ず声をかけてくれるタイプ。
この3つ目のタイプは、ありがたい存在なのですが、ときに辛さの要因にもなるのだと、娘を見ていて思いました。
「教室に行こう!」
彼女たちは、そんなふうに声をかけてくれるんです。
教室でみんなと一緒に勉強することは、確かに正しいし、なかなか来られない友達に毎回声をかけに行く行動も、確かに正しい。
先生からの信頼も厚いだろうな、と思うような子が多いです。
でも、娘の表情を見ていると、たぶん、そっとしておいてほしいときもあるんですよね。
ちょっとの強引さが嬉しいときもあれば、そのまっすぐな正しさが苦しくて、逆に行けなくなることもありました。
彼女たちが悪いわけでは決してないのだけれど、正しさはときに、人を追いつめてしまうこともあるのだと、改めて感じます。
――けれど、自分が小学生の頃はどうだったかというと。
実際に、不登校なのか保健室登校なのか、教室に来ないクラスメートはいましたが、私は話しに行く勇気もなく、無関心を貫いていました。
だけどもしも、声をかけるなら、きっと「学校においでよ。みんな待ってるよ」だったと思います。
それ以外の言葉は、出てこなかったでしょう。
小学生の私にとって、あたり前に正しいのは、「学校に来ること」でしたから。
ただ、それは、自分の側に相手を「呼び寄せる」ことでもあり。
大人になり、親になった今だからこそ、人に「歩み寄る」「寄り添う」という形もまた、大切なのだと感じるようになりました。
では、長女に明るく正しく声をかけてくれる彼女たちが間違っているのかといえば、そうではありません。
自分が行けない場所へ引っ張ってくれる力強さは、人生において確かに必要なものです。
どちらが正しいのか、ではなく。
正しさの持つ力を、適切に使えるようになりたいと思うのです。
彼女たちのまっすぐな声かけに、娘は勇気づけられたり、落ち込んだりしながら、今日も頑張っています。