最初は、価値観の多様性の話かな、と勝手に想像していて。
読んで初めて、「イエローでホワイトで」というのが、人種を指しているのだと気がつきました。
日本で暮らしていると、民族的な違いはほとんど意識することがないけれど、イギリスでは生まれ持っての多様性が、ごく普通なんですね。
階級や肌の色で分断したり結束したりする大人社会を、するりと生き抜いていくように、多様性を柔らかに捉えながら成長する息子さんが、素敵だなと思います。
「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」
息子さんに真剣に答える著者の言葉も、またいい。
最後に「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン」だと、彼は言います。
「未熟」とか「経験が足りない」という意味の、グリーン。
「人種も階級も性的指向も関係なく、共通の未熟なティーンとしての色」と、ブレイディみかこさんが表現する、グリーン。
いい色です。
「エンパシーとは何か」というテストの問題に、「誰かの靴を履いてみること」と書いた息子さん。
エンパシーとシンパシーとの違いを、辞書を引用しながら、著者はこのように説明しています。
シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。
だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、べつにかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。
シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。
そのエンパシーを身につける原動力を、
善意はエンパシーと繋がっている気がしたからだ。
一見、感情的なシンパシーのほうが関係がありそうな気がするが、同じ意見の人々や、似た境遇の人々に共感するときには善意は必要ない。
他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。
それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、
そんなふうに考えた、ブレイディみかこさん。
私は、日本では善意からの行動でも、「偽善」だと叩かれる雰囲気も感じていて。
だけど、言葉だけの善意より、行動する偽善の方が、確かに何かの力にはなっているようにも思えて。
その行動力の元が、「善意に近い何か」なんですよね、たぶん。
もうちょっと言語化できるように、考えてみたい。
ブレイディみかこさんと一緒に、宿題にします。
イギリスの中学生の日常から生まれる考察は、どれも興味深くておもしろかったです。
「日本人」という括りひとつで、特に不都合のない人生を送ってきた私ですが、読んでみると「世界を知りたい」と感じさせられる1冊でした。