ただいま料理が苦痛なターンに入っています…。
何かのヒントやきっかけになれば儲けモノ、ぐらいの軽い気持ちで読んだのですが、いやおもしろかった!
個人的な体験談より、生活史研究家として語られる事実が、ぐさぐさと刺さり、腑に落ちていきました。
著者がうつを発症した当時、「掃除も洗濯も買いものも洗いものもできたけれど、料理だけはできない」状態だったそうです。
ほかの家事は、もちろん工夫すればいくらでも大変になるが、ルーチンで作業としてこなすこともできる。
料理だけができない、という状態は、いかに料理がクリエイティブで高度な能力を要求される家事であるかを、私に教えてくれた。
ああ、これはよくわかりますね。
料理がしんどいときは、たいてい頭が回らない感じ。
ほかのことに脳と体の容量を使っているので、料理に割ける部分が、ものすごく減っているんです。
また、使い勝手の悪いキッチンがやる気を奪うのも、実感として身にしみています。
もちろん片づけたり整えたり、できるだけのことはやるのですが、そもそも引っ越しかリフォームでもしない限り解決しない使いづらさというものはあって。
引っ越しもリフォームもできない家庭の事情もまた、確かに存在するので。
それらをすべて、意志とやる気だけでカバーして日々の料理を作り続けるのは、困難な道のりです。
ていねいに暮らせないけれど
いちばん刺さったのが、「ていねいな暮らし」への愛憎のお話でした。
ていねいな暮らしが理想とされる一方で、批判も多いとのことですが、そもそも自分自身の中に、その矛盾した両方の気持ちがあるんです。
憧れて、いろいろ試してみるものの、本のようにはできないな…とあきらめ、また別の丁寧さに挑んでみる。
ていねい、丁寧、暮らし、暮らす…。
ブログに書き残しただけでも、ざっと10以上はあります。
それでもなお、いまだ「自分なりのていねいな暮らし」が確立できずにいるのは、おそらく本書で語られている、
多くの女性たちの心の底に、「昭和の理想の主婦」のイメージが貼りついている
からなのだと。
雑誌や小説、テレビで描かれた理想の主婦のイメージです。
妻として母として、これまでさまざまな前提をインストールし直しながら、生きやすい方法を探ってきたはずでした。
でも「サザエさん、ちびまる子ちゃん、ドラえもんの女性たちは専業主婦」という一節を読んで、初めてその事実に気がついたこと。
それに何の疑問も抱かず、あたり前の心地よい家庭像として受け入れていたこと。
作品の良し悪しではなく、私がそれを理想とする世界の中に、今もなおいるのだということ。
自分が根本から変わってはいないという実感は、衝撃でした。
著者いわく、家電の普及・スーパーマーケットの登場・電気やガスや水道などインフラの整備によって、暮らしが激変した昭和の時代。
農作業に育児、舅や姑の世話、手作業の家事に追われる母親を見て育った女性たちにとって、家事と育児だけに専念できることは、天国のように思えたかもしれない。
農村から出てきた女性たちにとって、専業主婦になることは出世だったのである。
これは、理想の主婦像が変えられない、根強い思い込みが生まれるわけだ…と嘆息しました。
同時に、いい意味で「理想に縛られるのは自分だけの責任じゃない」とも思えました。
「ていねいに暮らせないけれど、まあいいか」と受け入れてきた今の自分は、前向きなあきらめであり、戦略的な妥協であり。
あくまで「理想ではなくても幸せ」だったけれども、これからはもっと気軽に「理想を楽しむ」生き方に、シフトしてもいいのかもしれません。
理想を楽しむ
必要に迫られるから料理をしていた著者が、料理研究家について執筆したときに感じた、
「こんなにも真剣に料理に向き合い、料理を心から楽しんで工夫する人たちがいることに、改めて驚いた」
この感覚が、ヒントになりそうです。
私はなんていい加減に料理とつき合ってきたのだろう。
それに対して、この人たちはなんて料理を愛しているのだろう。
「料理って楽しいのよ」という彼女たちの声が心に届く。そうか、楽しいのか。
――彼女たちにとっては、私が読んだり書いたりするのが楽しいのと同じように、料理が楽しいんだ。
読書は昔から大好きだったけれど、運動は嫌いだった。
でも、そこまで好きにはなれなくても、体を動かす楽しさを知ることはできた。
料理や家事も、きっと同じです。
そうか。世の中のお母さんたちが、不満を抱えながらも毎日家事をして、家族を支えていく動機は、これだ。食べさせる喜び。
こんな風にビビッドな反応でなくても、残さず食べたり、黙々と、あるいは楽しそうに食べたりする家族の姿を、お母さんたちはずっと観てきたはず。自分がつくったものを食べてもらえることが、こんなにもうれしい。
(中略)
誰かのために家事をすることは、自分が人を支えている、役に立っていると思える喜びをもたらす。
その充実感は時に、自分が欲しいものを得ることより大きい。
(中略)
私が読んできた昔のフェミニストたちの文章は、社会の問題を訴えることが目的なので、そうした「与える喜び」が描かれていない。
逆に、その喜びをよく知っていたのが、主婦から料理研究家になった人たちなのではないだろうか。
これなんてもう、人の営みとして、腑に落ちる内容ですね。
最後に、深くうなずいた一節。
きっと生きている限り、料理は楽しくなったり面倒になったりのくり返しなのだと思う。
料理は、人生に似ている。いいときと悪いときがあり、重荷になる時期も、喜びの源になる時期もある。
まさに、としか言いようがないです(笑)。
だからこそ、私なりにやっていきたいし。
頑張ることも、休んでまた歩き出すこともできるのだ、と思います。