【noteエッセイ】「おはようございます」に込めて

40代になり、自他ともに「おばちゃん」という呼称に違和感がなくなってきた。

しかし私はいまだ、地域の子どもたちに、気さくに話しかけるおばちゃんになれないのである。

まず、相手が不快にならない距離感がつかめない。

私自身が人見知りな子どもで、近所のおばちゃんに話しかけられるのがプレッシャーでしかなかったため、

適切な親しさというものがわからないのだ。

さらに、子どもという生き物が謎である。

わが子の年齢以下の相手になると、なんとなく生態が理解できるので「子ども」と認識できるのだけれど。

幼児を育てている間は、小学生は正体不明の生き物だったし、小学生を育てている間は、中学生は理解不能な生命体のようだった。

今もなお、高校生や大学生は、未知の領域である。

おまけに、私の人見知りは子ども相手にも発動するのか、小さい頃から見知った子でも、わが子のように話しかけることはできない。

相手からのアクションがないと、どうしたらよいのかと途方に暮れる。

そんな私が、ただひとつ、こうしようと決めているのは「挨拶」である。

相手が何歳の子どもであろうが、丁寧に、対等に「おはようございます」と挨拶をする。

人懐っこい幼児が「おはよー!」と駆けよってくれることもあれば、耳に入らず素通りしてゆくこともある。

恥ずかしそうにぺこりと頭を下げてくれる女の子も、

思春期のぶっきらぼうさと礼儀正しさとが混じり合い「…はよっス」と口の中で挨拶を返してくれる男の子もいる。

「おはようございます!」と、こちらの何倍も丁寧に爽やかに、挨拶をくれる子もいる。

わが子の同級生などは、そのリアクションひとつとっても、年々成長を感じずにはいられない。

気さくに話しかけるおばちゃんには、あいかわらずなれそうにはないけれど。

こうして健やかな成長を喜び、見守っている大人の存在が、どこかで何かの助けになればいいなと思っている。

昔、私に話しかけてくれたおばちゃんたちも、きっと同じ気持ちだったはずだ。

私には、前に進み出て、子どもたちを導き守るようなことはできない。

その代わり、ひとりの人間として、どこまでも対等であろうと決め、今年の春も、一言の挨拶に心を込める。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする