『優しい人の自分の活かし方』というコミュニティに、参加しています。
【「生きづらさ」を定義する】
そちらで、素敵な宿題をいただきました。
“そもそも、生きづらさと名付けられたものの正体は何でしょうか。
それも、自分にとっての定義や確認が、必要なことかもしれません。”
確かに…生きづらさ、とひと括りにするには、あまりに乱暴な。
人によってまったく違う、繊細な感覚なのかもしれない。
自分が生きづらかったな。って、うすうす感じてはいたけれど…さて。
私にとっての「生きづらさ」って、なんだろう。
まずは、一般的な定義を調べてみました!
#ありがとうAIチャットくん
「生きづらさ」とは、限りなく個人的な、人生の苦しみを表す言葉なのですね。
私の過去をふり返ってみて、出てきたのは3つでした。
《①曖昧な境界線。》
アドラー心理学の“課題の分離”を、初めて知ったとき、本当に衝撃だったんです!
それぐらい、自分と他人の現実や気持ちを、ごちゃ混ぜにして生きていました。
良くも悪くも、場の感情に引っ張られるので、
直接のしんどさとしては、人に好き勝手揺さぶられる、ブランコに乗っているみたい。
#なので小説はめちゃくちゃ楽しめる
そして、引っ張られていることに、自分で気づけないままだと、
客観的視点を欠いた、歪んだ正義感で、突き進んでしまうことがあります。
《②大きな罪悪感。》
楽に生きること、失敗することが、なんだかいけないことのような気がしてしまう。
楽にしていたら、誰かに怒られるんじゃないか。
ミスをしたら、責められるんじゃないか…と思ってしまう。
その、怖い世界から自分を守るために、必要以上に自身を責めて、追い込もうとする。
「私は自分で自分を罰しますので、どうか許してください」みたいに。
自分が楽しめない、そんな世界にいたら、すっごく生きづらいです!
《③不安定なバランス。》
得意不得意の凸凹が大きいほど、過ごしにくい環境だったように思います。
#特に昭和から平成初期の学校生活
できる・できないが、個性ではなく。
優劣すら超えて、善悪になる(と私が感じる)空間が、とても苦手でした。
#だって居場所がないんだもんw
だけれども。
環境に適応できる力は、ゼロではなかったので、自分を環境に寄せていくことに、力を注ごうとした。
吉と出れば楽しいコミュニティ生活になるし、凶と出れば自分を押し殺すことになる。
失敗すれば、居場所がなくなる。
#思えば昔から中庸がないな!
自身の能力の、アンバランス。
適応力を発揮しようとしたとき、自分と周りとの調整がとれない、アンバランス。
このあたりの不安定さも、生きづらさを感じる要因だったかなあ。
で、今おもしろいなと思ったのが、根本的なことなんだけれども…
「生きづらさ」だったらしい感覚は、私にとっては普通だったので、
周りの人との違いを、まったく意識できなかったんです。
“前提条件がわからないまま、コミュニケーションを続ける”状態だったことが、いちばんの生きづらさだった、という。
#なんで伝わらないのかがわからなかった
#だから自己理解が好きなのか!
#自分でわからないことは伝えられないから
そういえば、子どものサポートをしていただいている方々からは、
「そもそも、本人がしんどいと感じる物事そのものに、周りにわかってもらえない、というしんどさが加わってくる」
と言われていました…!
#ようやく繋がった
こうして、改めて考えてみて。
いま私が「生きづらかった」と、過去形で言えているのは、幸せなことだなあ、と思います。
強みや特性は変わらないけれど、今はそれが心地よくフィットする環境にいる、ということだろうから。
#私とあなたは別の人間同士
#をお互いに楽しめる環境
否応なしに環境が変わって、またしんどくなることも、もしかしたら、あるのかもしれないけれど。
「生きづらくなく、生きられる世界もある」
と知っているだけで、心持ちはずいぶん違ってくるのです。