【エッセイ】私がいてもいなくても、の喜び

田舎に住んでいます。

毎日の通勤は、歩いて。
買い物や、暮らしの用事は、車で。

公共交通機関は、朝晩に学生さんが利用するぐらいの頻度でしか、運行されていません。
なので、徒歩か車での移動が、主です。

毎日、歩く時間と、車で移動する時間とを、両方もつようになって。
じかに外の世界に立ったとき、飛びこんでくる情報の多さに、おどろきました。

通勤は、片道ほんの10分くらい。
その短い時間に、私は空の色を見て、季節の気配を吸いこんで、
ひとが生きている音を聞きながら、足の裏で地球をぐんと踏みしめて。

世界のぜんぶに対して、わたし生きてる! って感じがする。

目も、耳も、鼻も、喉も、手も、足も。
からだじゅうから伝わってくる、世界の感覚があります。

車で移動しているときも、ふと気がつく美しさはあります。
雲のかたち、光のかたちに、息をのんだり。
海のいろの深さに、目をみはったり。

でも、歩いているときとは、圧倒的にちがうのです。

画集で絵をながめるのと、
美術館でおおきな実物を前に、立ちつくす瞬間ぐらい。
ものすごく、ちがうのです。

運転しているときは、運転に集中しなければならないので、
やむをえない部分もあるでしょう。
しかし、それをさしひいても、です。

世界が、自然が、
わたしに訴えかけてくるものごとの、なんて多く。
満ちあふれても、止まらない。

わたしがいなくなっても、
世界はきっと、美しいまま、続くんだ。

その事実は、幼いころには畏怖だったし、
若いころには、焦燥と恐怖だったけれど。

いまは、ただ、喜ばしさを感じています。

そうして、今日も生きててよかったなと、
息をいっぱいに吸いこんで、歩くのです。

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