説明責任が多すぎる

子どもが不登校になってから、家でも学校でも病院でも、あちらこちらで理由や状況説明が必要になりました。

特にわかりやすい理由がなく、子どもの特性と環境の相性によるものだと、本人も言葉にできません。

周囲と本人を繋ぐための代弁役は、いちばん近くにいる私になります。

学校や病院やデイサービスなどの支援に必要なところや、旦那さんへの共有は、同じ話を何度もする大変さはありますが、きちんとします。

でも、身内やご近所の「どうして行かないの?」「こうすればいいのに」といった声にまで答えるのは、説明責任が多すぎやしないか!? と思います。

もちろん、周りの人たちが、子どもへの理解を深めてくれる分にはありがたいですし。

子どもにとって良好な環境を作るためには、こちらからの発信も大事だけれど。

「説明責任が多すぎる」と感じるのは、私が周りと対立したくない言い訳なのかもしれない…。

といって、周囲への説明で力を使いきり、子どもの支援が疎かになるのは、本末転倒。

悩みどころでした。

では逆に、どんなときに「説明責任が多すぎる」と感じるのか。

考えてみると、答えはひとつで、

相手に「受け入れ」「寄り添い」「歩み寄り」の意思が見られないとき

でした。

ともに歩む旦那さんや支援機関の人たちは、ちゃんと聴いて理解しようとしてくれる。

同じ前提を共有して、同じ方向を見ています。

けれど、そうでない“善意の第三者”には、まず前提の共有から始めなければなりませんし、聴く姿勢が整った人ばかりではありません。

布教や営業のような労力が必要になります。

「本来は黙って見守っていてもらいたい相手」や、「関わらなくてもよい相手」にまで説明責任を負うのは、重荷です。

私が外野の声を気にせずいられるようになれれば、もしくは不登校という概念のない社会になれば、悩まなくてもよいのですが。

まずは小さく、説明責任を果たすべき相手の断捨離から、始めようと思いました。

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