今日は「忙しい」について考えました。
【忙しい、という字は】
“「忙」しいという漢字は「心を亡くす」と書きます”
学校で、複数の先生によく聞かされていた言葉です。
いやいや、いくらなんでも「自分の心を感じる時間すらない」なんてことないでしょ!
と、当時お気楽学生だった私は思っていたのですが。
大人になって、仕事と家族と責任が増えてから、確かに! と実感しました。
私は今、感じることがたくさんあって、こうして日記を書いて楽しめています。
でも、生きるだけで精いっぱいで、心を無にしないと乗り切れない局面もまた、確かにあって。
ひとつひとつを深く感じていたら、心が保たず、暮らしが維持できない。
だから無意識なのだけれど、あえて心を殺していた時期もあります。
すると、自分に蓋をしているわけだから、すごく苦しくて、後から絶対に大きなしっぺ返しがくるんですね。
まずは自分の心と暮らしを両立できる方法を、ちゃんと確保しておきたいな。
自己解決の力も、いざというときに頼れる人や場所、公的機関のセーフティネットなども大事です。
自分の内側にも外側にも、心をなくさないような手段を持っておく。
という前提ありきで、ですね。
そこまで切羽詰まっていなくても、「心をなくすほど忙しい」状態も、またあるなあ、と。
考えてみると、私の場合は“目的を見失った状態での忙しさ”が、それに当たるようです。
例えば、終わりのない家事など、嫌いな忙しさの最たるものなのですが…
#主婦は向いてない
嫌々ながらの家事に追われて1日を終えると、ただただ疲れしか残らず、ちっとも心は動きません。
でも、何のためにこの家事をしているのか、と考えたら。
自分が心地よく過ごすために、家が片づいていたほうが嬉しいからで。
家族が安定して過ごしてくれるほうが、私も落ち着くからで。
であれば、やろうと思えば無限に湧いてくる家事の中から、目的に合うものを選ぶことができます。
確かに忙しいけれど、
「これが終わったら、ゆっくり本を読もう」
「これをしておけば、家族がスムーズに過ごせて、私も楽だ」
という目的=ゴールを定められると、忙しさを効率よく扱えて、自分の時間が確保できるため、
結果として“心をなくさずにすむ”のではないかと。
つい目の前のことしか見えなくなってしまいますが、大局を見る視点は大事だなあ、と思いました。