改めて「応援」を考えてみた

今年の2月頃…日記を書き始めてまもなくのあたりかな?

私にとっての「応援」は、育児みたいなものなんだな、っていうことを思っていました。

【改めて「応援」を考えてみた】

そのときに書き留めた気持ちが、

“応援しようと決めたら、相手を最大限まるっと受け入れたいし、できる限り相手が望む形で応援したい。

人としての道に外れず、生命の危機でない限りは、試行錯誤・七転び八起きを見守りたい。

その人が、誰かと檄を飛ばし合ったり、支え合ったりしながら、ともに進むのを後ろから見守っていて、

喜びを分かち合いたいときや、苦しくて前を向けないときは、そっと声援を送りたい。

もしも疲れたときは、ちょっとだけ後ろをふり返って、休んだらいいよ。

今やっていることが、うまくいってもいかなくても、最終的にあなたが納得していて、あなたが幸せならいいよ。”

というスタンスで、だから私は「ひとりひとりをそっと育む」子育ての世界の一部にはなれるけれども、

「必ず何事かを成し遂げる」ビジネスの世界の一部にはなれないんだろうなあ、と感じていて。

その上で、私にできるやり方で、できることをやろうと思ったのでした。

そしてここ数日、改めて「応援すること」について、考える機会があって。

やっぱり私にとっての応援は育児だな、と気を引き締めたところがあったので、忘れないように記録しておきます。

育児は、自分のやり方をアップデートしながら、ひたすらやり続けて、やり遂げることしかできません。

たとえ誰かから育児方針(応援の方法)に異を唱えられても、感情は自分たち(応援しているコミュニティ)の内に留めて、

親(ファン)も成長しながら、育児(応援)し続けるしかないと思っています。

その感情を、ほかの家庭(他のコミュニティ)に持ち込むことはできないし、

今の自分に悲しさや悔しさがあるのだとしたら、長い時間をかけて、育児(応援)をやり切ることでしか、解決できない、とも。

そして、育児にも、乳幼児期・学童期・思春期・成人後など、いろんな時期があって、

それぞれの時期に適した向き合い方がありますよね。

応援も同じで、受け入れて寄り添ったり、自立を促して手を離してみたり、

どんなに苦しくても見守るだけだったり、見守る距離も、近くだったり遠くだったり。

そのときどきでの最適解は、違ってくるな、って。

だとすると、親(私)の基本姿勢としては、

「家族(ファン)として、そのときできることはやり続けよう」

だけになる。

そんな中で、手を離して見守り期に入ったならば、

子ども(応援している人)が、親(本人を取り巻く環境の一部にすぎないファンである私)のことなど、ふり返る暇もないぐらいに、

きらきらと自分の人生を生きてくれている、というのが、いちばんいいのだろうな。

どうしても、のときは、いつでも帰ってくればいい。

そういう場所があるということを、足枷でなく、正しくお守りにして、生きてほしい。

そんな親でありたいし、そんな応援者でありたいな、と思っています。

だから、親側も成長したほうが、絶対にいいし。

心身の危機に関わるようなことでなければ、子どもとの約束は守らなきゃだめだし。

#誰にも言わないでと前置かれたことは言わないとか

自分の言動が、子どもにどんな影響を及ぼすかを、考えていかなくちゃいけないし。

自分自身の問題を、子どもの問題にすり替えてはいけないし。

親の出る幕じゃないところで、しゃしゃり出てはいけないし。

子育てしながら、たくさん腑に叩き込むことがありました。

#腑に落ちるレベルじゃないw

私は私の立場で、日々成長します。

#これだけ自戒しておいても

#いざというときの言動は揺れるし間違う

#そこまで含めての自戒!

いつも学びをくれるわが子たちと、今回改めて考えるきっかけをくださった、こちらのサロンに感謝です。

セトちゃんのエンタメ挑戦記

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