「言葉」を使うこと

実際にSNSを使うようになってから感じていることを、言葉にしてみました。

【「言葉」を使うこと】

昔は本やラジオ、テレビぐらいしか「言葉」に触れる機会がなかったのが、インターネットのおかげで格段に増えました。

そのぶん、素敵な言葉にも、嫌な言葉にも、出会うことが多くなったと感じています。

「言葉」って、ほとんどの人が使える道具なのだけれど、それを外に向けるとき、私には剣を握ったような緊張感があるんです。

作家・田中芳樹さんの『ラインの虜囚』という小説の中に、すごく好きな一節があります。

はじめて剣を握った未熟者は、とんでもない思いちがいをする。

自分は人を殺す資格を与えられた、とな。

まったくとんでもない。

武器を持つということは、自分を殺す権利を相手に与える、ということなのだ。

そのことを、戦場で思い知ることになる。

それがわからないやつは、生きのこったところで、一生、戦士にも勇者にもなれない。

ただの人殺しで生涯を終えることになる。

これ、言葉を使って発信するときも、同じことが言えるな…って。

言葉そのものより“使い方”というか、使い手の覚悟や美学って大事だなと思います。

たとえば、私のライフスタイルで身近だった物事でいうと、

「恋人がほしい」「赤ちゃんを授かりたい」と切に願いながらも、叶わずに苦しんでいるときに、

「恋人がいない青春なんて価値がない」「子どもを生んでこそ女性の本懐」みたいな言葉の使い方を見ると、悲しくなる。

でも「私は恋人がいて幸せ」「子どもを生んで親も成長できた」のような使い方だと、素直に嬉しくなる。

#そこで曲解して噛みつきたくなったときは

#むしろ自分が病んでいる

“言葉という剣を持っている”と意識した上で、どのように相手に向けるのかを考えて使っている。

この部分が、その人の美学になってゆくのだろうな、という感覚です。

そして、たとえ意識していなくても、重ねた言葉の向こう側には、使い手の美学が見えてくる、とも思います。

どんなに綺麗な言葉を使っていても、その人なりの美学、芯のようなものがちぐはぐで伴わないものだったら、やっぱり悲しくなる。

逆に、一見乱雑だったり、一方的だったりな言葉の使い方でも、

(それが好みに合うかどうかはまた別だけれど)

一貫して使い手の価値観がぶれていないものは、私にとっては許容できるものになります。

これも自分が経験した例しか出てきませんが、

若者言葉を否定して日本語の未来を嘆く整った文章は、確かに読みやすいし受け入れやすいかもしれない。

けれども、心底これが素敵! 可愛い! という気持ちにあふれてギャル語を使っている女子のほうが、

その言葉遣いが好きかどうかは別にして、価値観の芯としては共感できるなあ…と感じたときのような。

漫画的に例えると、理路整然と善を説く正義よりも、信念を貫いて炎の中に消える悪役のほうを愛したくなるような。

#わかりやすく例えるの難しい

SNSの中は、玉石混交の言葉の使い方と価値観があふれる世界なので、すごく勉強になります。

自分が言葉を使うとき、丁寧に研いで丁重に扱うように、不要な刃を向けることがないように。

“学び続けることを忘れずに”を、自戒としたいと思っています。

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